告発の事実/関与と役割/被告発人安田繁克/中古車売買をめぐる被告発人大網健二との接点



告発の事実/関与と役割/被告発人安田繁克/中古車売買をめぐる被告発人大網健二との接点

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 私が市場急配センターで仕事を始めた頃の被告発人安田繁克について取り上げるつもりだったのですが、被告発人大網健二との関わりを思い出したので、そちらを先に記述しておきたいと思います。

 記憶が薄れ時期の特定が困難となっているのですが、被告発人大網健二は市場急配センターの社員運転手だった笹田君とも中古車販売を巡るトラブルを起こしており、こちらは平成元年12月頃と特定できます。

 被告発人大網健二から直接聞いた話ともはっきりしなくなっているのですが、他にそのような話を聞く人物は他にいなかったようにも思います。あるいは被告発人浜口卓也ですが、はっきりした記憶は現在ありません。

 ちょっと変わった中古車売買の話だったので、一部は印象的に記憶しているのですが、BMWの中古車を巡る話で、しばらくして一度、それらしい中古車を金沢市場輸送の駐車場で見かけたことがあります。

 スポーツタイプのBMWでしたが、昭和50年代の初めのスーパーカーブームの頃のBMWで、宇出津小学校の5・6年生の頃、プラモデルを買って作ったかもしれないと思う車でした。

 私は大型トラックの運転席からそのBMWを見たという記憶で、見たのも一度だけ近くで見ていないのですが、いつ壊れてもおかしくないポンコツの状態で、それもとても珍しく感じられました。

 他の記憶との混同があるのかもしれないですが、白がベースで、赤と青のラインが入っていたように思います。レース場の写真として見たことのあるようなデザインでした。

 被告発人安田繁克の入社は昭和63年の9月とも11月頃とも思えるのですが、西口君の入社と一緒になったことで、運転手の間で盛り上がる話題となっていました。夕方の暗くなった時間で、金沢市場輸送の運転手の休憩室で場面です。

 西口君の場合は、社員としての入社ではなく、4トン保冷車の持ち込み運転手と聞いたように思います。フルモデルチェンジしたばかりで、余り見かけていなかった日野の4トン車でした。日野レンジャーという車種になっていたかもしれません。

 前にも一度調べたことがあるのですが、余り記憶がはっきりしないものの、トラックのフルモデルチェンジというのは10年に一度とも聞いていたような時代でした。

 被告発人安田繁克は大柄で身長が180センチはあるとも聞いた憶えがあり、体が大きいだけに目立つはずですが、入社したと聞いてから不思議と姿を見かける機会が少ない市内配達の運転手でした。

 運転手の休憩室と呼ばれていたわけではないのですが、便宜上そう呼んでいます。金沢市場輸送の会社の建物というのは、デジカメで撮影したものがあります。

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> 2007-07-21_180259_金沢市場輸送の会社の建物.jpg https://t.co/zlRqKl5DCt


 運送会社の建物には見えないと思いますが、昭和63年7月の移転当時の新築です。この辺りに舗装されておらず雨でぬかるみができるような金沢市場輸送の駐車場があったのですが、不思議と建物の建築現場は目にした記憶がありません。

 建物の写真の左手にある勝手口のようなドアですが、ここが運転手の休憩室の出入り口でした。撮影されていない建物の右端に事務所の正面玄関のような出入り口がありますが、出入りする運転手はまずいなかったと思います。

 写真で見て建物の左側の側面ですが、手前から3つの窓があって、だいたいこの間が運転手の休憩室のスペースで、ほとんど記憶になかったのですが、その奥の小さい窓のスペースが畳敷きの部屋で小型テレビが1台おいてあるだけだったと思います。

 このテレビは観た記憶がほとんどないのですが、1つだけ強く印象に残るのが、平成3年1月17日だったと思いますが、湾岸戦争勃発のニュースでした。朝にいたのですが、新車の大型ウィング車2315号の納車を待っていました。

 今考えてみると、神社にお祓いに行った記憶がないのですが、昭和63年の12月か平成元年の1月にもいすゞの大型平ボディ車に新車で乗務していました。

 記憶にあるのは昭和62年4月の大型保冷車7599号で白山比咩神社にお祓いに行ったことと、平成3年10月12日、石川護国神社にお祓いに行ったことです、会社からは白山比咩神社に行くように言われていたのですが、遠いと思ったことなどから電話で調べて向かいました。

 7599号のときは、竹沢俊寿社長の夫人から白山比咩神社にお祓いに行くように言われ、5千円をあずかったと記憶にあります。当時は保冷車の箱の後ろの扉の下の方に、白山比咩神社のステッカーを貼り付けていました。

 一番奥にも小さな窓があって手前にドアのようなものが見えますが、小さな物置のような部屋でオイルのドラム缶が置いてあり、運転手が自分でオイル交換をするようになっていました。1万キロ毎の交換で、2回に1回はエレメントの交換もしたと思います。

 この写真では分かりづらいですが、電柱の横に車が停まっていて、その角の辺りが短い辺になっていて、物置の出入り口はその角にあったとも思います。よく写真を見ると後ろのドアと思った前にプロパンガスのようなものが見えます。

 台所のことはほとんど記憶にないのですが、物置の窓と思った辺りにはトイレがあったと思います。トイレの手前に台所があったとも考えられるのですが、台所を使うことはなく、関心もなかったので記憶に残っていないようです。

 この写真の撮影方向ですが、逆の方向に向かって大型トラックの運転席に座り、左斜めにBMWを見たという記憶です。

 正面から駐車場に入ると、奥の右角に運転手の休憩室の出入り口があって、少しスペースを開けて、運転手らの乗用車が並んでいました。同じ敷地のようになっていましたが、隣はパチンコオークラの駐車場の一つで、境目の辺りに洗車機があったと思います。

 駐車場の手前の方は、パチンコ店の駐車場との境目に経由の給油機があって、ブロック塀が仕切りになっていたと思います。この写真もGoogleフォトだ見つけたのですが、他に別の方向から写したはずの写真が見当たらなくなっています。

- 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町3丁目17−17 - Google マップhttps://t.co/PFwNDDxvkX


 ストリートビューの写真が2017年7月ですが、金沢市場輸送の建物はほぼそのまま残されたかたちで撮影されています。これまで思っていたより複雑な構造の建物に思えたのですが、正面側に玄関が2つあって、向かって右側は会長室に直結していたように思います。

 なお、先程、後ろの辺に物置の出入り口があったような、と書いていましたが、プロパンガスの横のドアが物置の出入り口となっていました。今のストリートビューで見ると休憩室の並びの3枚目のドアの前にプロパンガスが置いてあります。

 2007年7月に金沢市場輸送の建物をデジカメで撮影したとき、その数年前に金沢市場輸送は倒産したと聞いていたように思います。東北陸運に切られたのが原因とも聞いたように思うのですが、被告発人安田敏から聞いた可能性がありそうです。

 市場急配センターが移転する前、市場急配センターの市内配達のトラックはほとんど金沢中央卸売市場の中に駐車されていましたが、給油に来たり、洗車をする運転手はいました。

 いくら仕事内容が違うとはいえ、被告発人安田繁克の姿は滅多に見かけず、初めて言葉を交わしたことになるかもしれないのが、積雪でスリップしたたぶん2トントラックの運転を代わり、動かしたことです。

 2007-07-21_180259_金沢市場輸送の会社の建物.jpgの写真の一番右側からもう少し右手の場所だったと記憶しますが、奥に止めてあった2トントラックでした。雪が積もる季節で、季節外れの雪だったという記憶はないので、12月から3月の間になると思います。

 その前にも被告発人安田繁克の姿は見ていて顔は知っていたと思います。私は長い間、堂野さんの愛人の息子と思い込んでいたのですが、平成3年になってからか、松浦さんの愛人の息子だと知り、自分の勘違いに呆れたことがありました。

 前にも書いていると思いますが、近年は自分の勘違いではなく、実際にそのように聞かされ吹き込まれていた可能性があるとも考えるようになっています。

 私は昭和61年の8月から11月まで金沢市場輸送で市内配達の仕事をしたことがあり、その後、金沢市場輸送の市内配達は別会社として独立し市場急配センターとなったのですが、平成3年の5月か6月から8月30日辺りまで、市場急配センターの市内配達をしました。

 給料の締切が25日で、その3日前から市場急配センターの仕事を初めたことははっきりしているのですが、私の記憶では5月だったのが、金沢市場輸送の運行表では6月中も金沢市場輸送で長距離の仕事をしていたことになっていました。

 この金沢市場輸送の運行表ですが、平成5年の12月の初め頃に斐川雅文弁護士から郵送された供述調書の一部だったかもしれません。

 それとは別に、まだ控訴審の段階で、唯一手元に入った事件関係の数少ない資料の1つだったような気もするのですが、いかんせん記憶が減退しています。

 控訴審の私選弁護人だった被告発人木梨松嗣弁護士には、手紙で何度か市場急配センターの運行表を手元に欲しいと頼んだのですが相手にされませんでした。

 控訴審の判決が平成5年9月7日で、金沢刑務所に戻ってすぐ革手錠をつけられ保護房に収容され、その件で確か25日の懲罰を受け、その懲罰が開けたのが10月の10日すぎか中頃だったように思います。懲罰の間は、書き物をすることも出来ませんでした。

 その懲罰明けから上告審の国選弁護人が決定されるまでの間に、作成し被告発人木梨松嗣弁護士に郵送したのが、今日はまだやっていませんが、プリンターの複合機でPDFファイルにしている平成5年11月28日付の手書きの書面です。

 「平成5年11月28日付の手書きの書面」は、「てがき」で単語登録したものですが、締めくくりの日付が平成5年11月28日となっていました。11月の終わりなので、すでに国選弁護人は決まっていたと思います。

 斐川雅文弁護士から金沢刑務所に郵送で供述調書が届いたのも11月の最終日辺りという記憶で、仮下げなどの願箋を出してから、房内の手元に入ったのが12月の初めという記憶になっています。

 書面の平成5年11月28日という日付より前に郵送したとは考えられず、当日以降の郵送になるはずですが、今、「cal 11 1993」というコマンドで確認したところ、平成5年11月28日は日曜日となっていました。

 土日は免業日で、どんな例外でも発送があり得ませんでした。前にも書いていると思いますが、上申書を含め通常の便箋以外の書面の作成は、認書作成願いという願箋とその許可が必要でした。その日に許可が出ることはなかったかもしれません。

 書面の発送にも大型封筒使用願いという願箋が必要でしたが会計課長となっていて形式的な感じでした。認書の作成は「処遇首席殿」あるいは「首席矯正処遇官殿」となっていたはずです。

 ちょうど平成5年辺りに変更となった首席矯正処遇官ですが、それまでは「保安課長」となっていました。まだ保安課長だった頃、呼び出されて直接面談したことがあったのですが、その保安課長は、私は説諭などしていないと繰り返していました。

 内容はよく思い出せないのですが、先に書いた手紙の内容で保安課長に呼び出され、それを説諭と表現した手紙を書いたところ、再び保安課長に呼び出され前の話の内容を全面撤回されたような記憶となっています。

 平成5年9月7日に控訴審判決が出るだいぶん前から被告発人木梨松嗣弁護士の接見はなく、6月中にあったのが最後かともおもうのですが、その6月には山口成良金沢大学教授が証人で出る最後の審理となった公判があって、その前後にも被告発人木梨松嗣弁護士の接見はなかったと思います。

 法律家ではない素人なので普通にあることなのか不明ですが、公判期日の指定と同じように、判決公判の指定が拘置所の独居房にいる私のもとに届きました。いきなりの判決公判の指定で驚いたのですが、上申書の作成中でした。

 分散して郵送したと記憶のある名古屋高裁金沢支部宛の上申書ですが、事実関係の記述は平成4年の1月に入った辺り、あるいは1月の中頃だったと思います。その辺りで途切れてしまったのですが、懲罰明けに再開したのがその続きになります。

 接見のとき私に上申書の作成と提出を勧めたのは被告発人木梨松嗣弁護士で、裁判官の面前で話したのと同じ、などと気持ちを込めた言葉で私に語りかけていました。

 そういえば、3月1日から3月31日まで金沢大学病院で措置入院の精神鑑定を受け、拘置所に戻った後、一度は被告発人木梨松嗣弁護士の接見があったことははっきり憶えています。実際とは違った日付に強くこだわった入院患者の話をしたことです。

 被告発人安田繁克のBMWのことですが、計画的に吹き込まれていたように思えます。被告発人安田繁克と被告発人大網健二の接点ですが、姫のNKさんか宇出津のK村さんがまず考えられます。

 姫のNKさんについては、市内配達の仕事を始めた頃、松任市のアパートに住んでいると被告発人大網健二に聞いた憶えがあり、珠洲市の女性と結婚して一緒に生活しているとも聞いたことを憶えています。

 その市内配達の仕事を始める1,2ヶ月前になるのか、そのときにも被告発人大網健二に姫のNKさんの話を聞き、魚の行商のような移動販売の仕事をしていると聞いていました。

 市内配達の仕事をするようになり、しばらくしてから、実際にその行商で使っていたという屋台のようなトラックを金沢市場輸送に持ってきて、そのトラックの前で話をしていた場面もはっきり記憶に残っています。

 なんどか金沢市場輸送の給油機の前辺りで、姫のNKさんと宇出津のK村さんと話をしたことがあったのですが、姫のNKさんは無口で控えめになっていたという印象があります。昔話をすることもなかったように思います。

 金沢市場輸送の休憩室ではテーブルの席に座り、黙々と市内配達の伝票整理をする姿を見ていました。この休憩室ではほとんど会話をした記憶がないのですが、用事が終わるとすぐに帰っていたのか、くつろぐ様子も見たことがなかったと思います。

 姫のNKさんも金沢市場輸送は2度目の入社になるはずなのですが、それらしい雰囲気は全くみせず、休憩室では周囲を見渡すこともなかったように思います。必要最低限の用事を済ませ出ていくという感じでした。

 私は昭和59年1月の初めての金沢市場輸送の入社で、その年の10月に金沢市場輸送を辞めているのですが、その辞めた直後に、姫のNKさんも入社し、4トン保冷車で長距離の仕事をしていると聞いていました。

 他にも同じような能登の友人知人がいたのですが、その中でも長続きしているような話を聞いていたと思います。短くても半年はいたような、長くて1年になるのか、その後、金沢市場輸送を辞めて野々市町の別の運送会社に入ったと聞きました。

 そのあとも風の便りのような話を聞くことはあったように思いますが、忘れていることが多いかもしれません。

 はっきり思い出せないもどかしさがあるのですが、被告発人松平日出男が入るより前、半月ほど前に姫のNKさんと宇出津のK村さんが持ち込みで市内配達の始めたと聞いていたかもしれません。

 最初に私が金沢市場輸送で被告発人松平日出男の姿を見たのは昭和63年の8月の終わりか9月の初めなのですが、入社が決まった場に居合わせたとは考えにくく、その前に入社が決まっていたとも考えられます。

 最初に被告発人松平日出男を見てからすぐに車の買い替えを勧められ、新型車が出てまもなかったトヨタカリーナを試乗させるため、試乗車を持ってきたことがありました。

 しばらくしてピタリと車の買い替えの話はしなくなったのですが、被告発人松平日出男の姿をみることも滅多になかったように思います。

 市内配達の管理者のような抜擢でしたが、運転手の経験は話を聞いたことがなく、仕事内容もわからないので的確な指示を出すことも出来なかったと考えられます。

 石川トヨタで営業の仕事をしていたので、取引や商談というのは得意だったのだと思いますが、仕事らしい仕事をしている姿をほとんど見かけたことがなく、金沢市場輸送の事務所にいる姿も皆無ではないと思いますがほとんどありません。

 それでも夕方になると、よく休憩室にやってきて麻雀をしたり、横で見ていました。電動の本格的な麻雀卓だったと思いますが、ずっと一台だけだったと思います。参加するのは4人と決まっているので、周りで見ている人も多く、交代をしていたと思います。

 被告発人松平日出男はいつもカベヤと呼ばれた友人と二人連れでした。松岡という名前を聞いたようにも思うのですが、内装工事の会社の社長をしているとも聞いたことがあり、内装で壁を扱うことから、カベヤと呼ばれていたようです。

 よほど仲が良かったのだと思いますが、いつものように一緒に行動をしていました。市場急配センターの会社の株を持っているという話を聞いたこともなく、全くの部外者のような話しか聞いていなかったのですが、片山津温泉せきやでの新年会に参加していました。

 本人に向かってカベヤと呼びかける人は記憶にないですが、被告発人池田宏美などは名前で呼び、それが松岡だったような記憶となっています。被告発人松平日出男が本人のいないときにカベヤと呼ぶことはあったかもしれません。

 昭和63年の8月のお盆休み、被告発人大網健二は神戸から帰省していたのですが、9月か10月には金沢で生活するようになり、12月には金沢港の近くの金沢市無量寺のアパートで、すでに入籍していたと思われる妻と一緒に生活するようになっていました。

 神戸でも一緒に生活していると聞いていましたが、神戸市の住まいには一度も遊びに行くことがありませんでした。一度だけ機会があって、宮崎県都城市から大きなタイヤを神戸に運んだときですが、途中で寝過ごしてしまい立ち寄る時間がなくなったのです。

 それでも被告発人大網健二が仕事仲間のような男性一人を連れて、車で会いに来ました。

 昭和59年のときから何度か行っていた場所で、神戸の市場の奥にある外果の倉庫で、バナナセンターと呼ばれていたかもしれません。ここは中西運輸商の仕事でも行った覚えがあります。

- 神戸市和田岬 - Google マップhttps://t.co/ABbkQzAOtW


 見覚えのない地名ですが、神戸の市場の横を通って奥に進んだので、この和田岬という辺りになるのかと思います。和田岬駅とありますが、住所は和田宮通となっています。和田岬砲台跡というのもあります。

 そのとき被告発人大網健二はプジョーというフランスの車に乗ってきていました。お盆のときも同じ車だったと思います。プジョーではなく別の名前の車だったかもしれないですが、名前は知られた変わったかたちのフランス車でした。

- フランス車 シトロエン 昭和 - Google 検索https://t.co/wFPXViMWD9


 記憶とぴったり一致するようなかたちの車の写真が見当たりませんが、このシトロエンだったかもしれません。とにかくフランス車だったことははっきりしています。横から見て後ろの方の曲線に特徴のある車だったと思います。

 本当かどうかわからないですが、関係者KYNは、被告発人大網健二が能登に帰省した帰り道、そのフランス車が故障し、故障した車を乗り捨て、他の車を盗んで神戸に帰ったという話をしていました。滋賀県内と聞いたように思います。

 神戸から戻り最初の頃、被告発人大網健二は中古車販売の仕事をしているとか、車のブローカーと言っていたかもしれないですが、なんとか自動車という名刺をくれたように記憶にあります。福田自動車だったのか、金沢市内の高畠か玉鉾が住所になっていました。

 「twilog-serch 福田自動車」で検索すると、やはり福田自動車だったと確認できました。

- ./kk_hirono2021-08-07_110004.csv:2020-09-13 14:28:39 "被告発人大網健二が神戸から戻った時期というのもすぐに思い出せないのですが,昭和63年のお盆には神戸から帰省していました。神戸から戻って最初の頃,車のブローカーをしているような話をし,福田自動車という名刺をくれたと思います。会社の住所は,金沢市高畠か,少なくともその周辺でした。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/1305015514385715200
- ./kk_hirono2021-08-07_110004.csv:2019-07-29 13:27:02 "被告発人大網健二はUHとも一緒に車のブローカーの仕事をしていると聞いた時期がありました。今、久しぶりに思い出そうとして1,2分時間が掛かったのですが、被告発人大網健二の名刺には「福田自動車」とあったように思います。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/1155696209400516608
- ./kk_hirono2021-08-07_110004.csv:2019-02-06 16:43:04 "UTが服役したという話を聞いたのは、ちょうど被告発人大網健二が金沢市の高畠で自動車のブローカーをやっていると話していた頃であったように思います。福田自動車というような割とシンプルな名前であったとも思いますが、名刺を見たかもらった気がします。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/1093052442067890176
- ./kk_hirono2021-08-07_110004.csv:2016-06-25 06:36:11 "年内に金沢に来たと憶えていますが、半年ぐらいは職を転々として、金沢市高畑だったと思いますが、「福田自動車」という名刺を持っていたと思います。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/746456913143963648
- ./kk_hirono2021-08-07_110004.csv:2014-01-08 03:12:54 "そのことから考えると昭和63年の秋の早い段階で被告訴人OKNは神戸から戻り金沢に住むようになっていたはずです。初めは車のブローカーのような仕事をしているという話を聞いていました。確か福田自動車という名刺も持っていて、市内高畠辺りに会社があるような話を聞いていました。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/420619066424832000


 やはり福田自動車でしたが、これまで深くは考えなかったのですが、福田という名前の被告発人大網健二と共通の友人知人はおらず、福田という名前の人と会ったこともなかったかもしれません。福井刑務所では一人いたような気がします。

 福田というのはよくある名前で、昭和の時代は総理大臣の名前として聞いていたような記憶もあります。

 UHが交通刑務所に行くという話を聞いたのも同じ頃だったように思いますが、昭和58年の事故でした。朝方に遊びに行った片町の近くのアパートで、昨夜、このアパートから帰った知人か友人が、片町か南町で大事故を起こしたと聞いていたのです。

 無免許だったのか飲酒運転だったのか、はっきり思い出せないですが、タクシーに衝突し、2人か3人植物人間になったという話でした。その事故を起こしたのがUHで、知り合ったのが昭和58年の秋になると思います。

 これも被告発人安田敏が関係しているのですが、金沢市観音堂の被告発人安田敏のアパートは、左右に向き合った長屋のような古い木造のアパートで、4つの部屋が仲の良い友人関係となっていました。

 右手のアパートの一番手前が被告発人安田敏の借りていた部屋で、左手のたぶん一番奥の部屋には、珠洲市のYHがいて、見附島の近くだと聞いていました。あるいは被告発人安田敏が引き払った後になるのですが、部屋の中でマフラーを巻く寒い時期に出会ったとも思えます。

 その珠洲市のYHの部屋に遊びに来ていたのがUHでした。私が被告発人安田敏の観音堂のアパートに居候をしていたのは昭和58年の11月の10日頃までで、被告発人安田敏は消火器販売を始めて、出張と言って県外に出掛け、金沢には余りいなくなりました。

 その年の12月には、金沢市増泉の石坂の近くのアパートを借りていたかもしれません。12月24日のクリスマスイブの夜にも一緒に遊んだ記憶があります。携帯電話もない時代で、出会うのも偶然の要素が大きかったように思います。

 私も金沢では住所不定の状態で友人宅を泊まり歩いたりしていたのですが、翌年の昭和59年の1月の中頃から金沢市場輸送で長距離の仕事を初め、4月には東京から戻り、一緒に金沢市場輸送で仕事をするようになった被告発人大網健二と共同で東力のアパートを借りました。

 被告発人大網健二がなにか理由をつけてアパートは私名義で借りたのですが、私はその東力2丁目のアパートに、傷害・準強姦被告事件の平成4年4月1日まで住んだことになり、その4月1日は、新しく借りたワンルームマンションの入居日でもありました。

- あおぞら薬局 アイリス店 - Google マップhttps://t.co/42ERRK7Snv \n 〒920-0024 石川県金沢市西念2丁目36 番地5


 地図で見ると上記の辺りと思いますが、金沢中央卸売市場の正門前から一直線に伸びる道路があって、左手に「大三元」という看板があったことをよく憶えています。その少し先に3階建てぐらいのビルがあって、一階が寿司屋になっていたと思います。

 そのビルの2階か3階に住んでいたのが、珠洲市のYHで、同じ金沢中央卸売市場で仕事をしていたことから2,3度遊びに行ったことがあり、そのとき近くのアパートにUHが住んでいると聞いて、遊びに行ったのが始まりだったと思います。

 そこですぐに知り合ったのが、羽咋郡富来町のOTと、三重県に住んでいたとも聞いたHMでした。私は被告発人大網健二を連れて遊びに行ったのですが、この友達付き合いはその後、長く続き、被告発人大網健二が本陣不動産株式会社に入社するきっかけになりました。

 昭和59年の5月か6月のことだと思います。その年の、7月7・8日と決まっていた宇出津のあばれ祭りで、被告発人大網健二が城野町のキリコを担いでいて腰を痛めたといい、重症のような話をして、波多野整形外科に入院しました。

 金沢市場輸送の会社の保険を使って入院したような話でしたが、退院した頃には金沢市場輸送を辞め、私が貸していた黄色いカリーナ1600GTをナンパをしながら乗り回し、事故を起こして廃車にしてくれたのです。

 私は前に被告発人大網健二のカワサキFX400というバイクで、被告発人大網健二の妹を後ろに乗せて、転倒し、バイクをいくらか壊し、妹も怪我をしたような話だったのですが、修理代や治療費はいらないと言われました。

 昭和58年7月に普通免許をとってから3台の乗り換えでローンを組み直し、3台目がその黄色のカリーナで、50万円で買ったとも思うのですが、被告発人大網健二が現金で10万円を差し出したので、それで手を打つことにしました。

 その私に渡した10万円で、みんなで片町に飲みに行くことを被告発人大網健二は期待している様子もあったのですが、金沢市場輸送を辞めてすぐのときで、私はその10万円を持って、鉄道で北海道に行ったのです。仕事を探しに行くつもりでした。

 実際にちり紙交換の仕事をしたのですが、労働条件が悪すぎる話を聞き、同じ部屋で生活していた北海道の二人を連れて、一人の車で金沢に戻ったのです。札幌市まで行って金沢に戻ったのは3週間ぐらいだったかと思います。

 記憶がはっきりしないですが、この間にも免許の停止があったのかもしれません。被告発人大網健二ら5,6人で土建のアルバイトをしていたのですが、12月の20日すぎから中西運輸商で長距離の仕事を始めました。

 翌年の昭和60年の春頃になると、また私の紹介で、被告発人大網健二は中西運輸商の長距離の仕事をするようになったのですが、2,3ヶ月の間だったと思います。ちょうどその頃に私は、当時16歳だった前妻と知り合ったのですが、4月の終わり頃と思います。

 被告発人大網健二は、これでもかというぐらい遊び回っていたようですが、その昭和60年に付き合っていた2つ年下の彼女が、宇出津の石川県立水産高校を卒業し、兵庫県に就職しました。

 兵庫県でも大阪府に近かったと思いますが、漫画で木枯らしが吹くような季節、たぶん11月頃になって、被告発人大網健二がバイクで東力の私のアパートに来て、今から大阪に仕事を探しに行くと行って、走り去っていきました。

 ヤマハのVT250というバイクだったように思いますが、けっこう新しいモデルのバイクで、タンクが黒、シャーシが赤になっていたと思います。V型エンジンになっていました。

 大阪で大型トラックに乗務して仕事をしているという話と、宝塚市のステーキ店で働いているという話を聞いていたのですが、その後、神戸市に住むようになったと聞き、車の中古車販売の仕事をしていると聞いたように思います。

 少し思い出したのですが、さきほどの被告発人大網健二の妹を後ろに乗せたバイクの転倒は、宇出津の新村浜の港沿いの道路で、緩いカーブを曲がったところ、家の前の道路に除雪の雪が捨ててあって、スリップして吹き飛ばされていたように思います。

 スピードが出ていたので一瞬で体が飛ばされたのですが、怪我はあってもかすり傷程度で、バイクの損傷も軽かったと思います。

 被告発人大網健二と中古車売買でトラブルがあったのは笹田君ですが、普段大人しい笹田君が、怒りを爆発させて私に苦情を訴えてきました。その場所というのも金沢港の無量寺埠頭で、平ボディ車として始めて参加したイワシの運搬の時だったと思います。

 平成元年の12月中には間違いないですが、月の中頃だったのか時期ははっきりしません。笹田君はS藤を連れて二人で来ていたのですが、S藤はそれまで見たことのなかったパンチパーマの髪型で、知らないヤクザ者を連れてきたのだと最初は思っていました。

 実際、S藤は元暴力団員で、入れ墨を入れ、脱退する時、必要がなかったのに詰めたという指の欠損もありました。実際に切断した指を見たのか記憶にはないですが、そういう話を聞いたことはよく憶えています。

 もともと名古屋の人間と聞いたように思い。話し言葉も名古屋弁に近いものがあったかもしれません。

 ちょうど被告発人松平日出男にトヨタ・カリーナの試乗車を見せられた頃、という記憶として残っているのですが、金沢市場輸送の休憩室でS藤からバイクの話を聞き、しばらく話し込むことがありました。彼もその後は、余り姿を見かけなかったように思います。

 胸の入れ墨は見せられた憶えがあり、キャベツのようだとからかった憶えがあります。S藤は笹田君と金沢港に来た時点で、市内配達の仕事は辞めていると話していたかもしれません。

 その後に、私の前に姿を見せたのは、平成3年の9月から10月で、2,3回あったと思うのですが、最後に1万円を貸すと、それっきり姿を見せなくなりました。

 次に顔を合わせたのが、平成4年5月28日で、金沢西警察署の2階で、私が金沢刑務所の拘置所に向かって、取調室を出て歩き出したというタイミングでした。

 いくらなんでもありえないタイミングで、金沢西警察署の刑事が舞台設定をしたとしか思えない状況でした。

 平成3年の秋に会った時、S藤は、女子大生と同棲し津幡町に住み、鳶職の仕事をしているか、していたような話をしていました。些細な情報のようですが、この話がきっかけで、私は、少し前にS藤が金沢西警察署の留置場にいたことは知っていたのです。

〈〈〈 2021/08/13 17:49:38 Linux Emacs: 〈〈〈

〉〉〉 Linux Emacs: 2021/08/14 08:39:05 〉〉〉

 今しがた1つ気がついたことがあるのですが、長い間、間違った認識でいたことかもしれません。大事なことかもしれないので、この後1つのエントリーとして記録しておきたいと思います。

 その前に、BMWの話についてまとめておきたいと思います。時期が特定できず、記憶も断片的でぼやけた部分があるのですが、これは後になってしっかり確認できた事実関係でもあります。

 被告発人大網健二に被害者安藤文さんのことを話すようになったのは平成3年の12月の10日過ぎあるいは中頃ですが、私が被害者安藤文さんの不可解な言動に対して不満や愚痴のようなことを話したことがありました。

 すると、被告発人大網健二は、いかにもろくでもない女という調子で、中古車の商談に喫茶店に一緒に連れてきていた女、などと返しました。商談という言葉は使っていなかったと思いますが、被告発人安田繁克のBMWの話ということはわかりました。

 いちおう商談ということにしておきますが、どうもうまくいかなかった様子で、ずいぶん面白くなさそうな口ぶりで、言葉に力が入り、攻撃的とも感じられるものでした。

 気分のむらが大きいのも被告発人大網健二の性格でしたが、よっぽど嫌なことがあったとも感じられました。本陣不動産株式会社で営業の仕事をしていたこともあり、相手を立てて事を運ぶ、技術のようなものも一方で感じていたので、そのギャップはありました。

 BMWの商談については被告発人大網健二が話すままを聞いていただけと思います。被告発人安田繁克についても会社の関係者の愛人の息子というぐらいの認識しかありませんでした。

 BMWの話と時期がどれぐらい離れていたか思い出せないのですが、被告発人大網健二が不快な感情をさらに強く露わにし感情的になったのが笹田君との中古車の売買でした。

 一方の笹田君も被告発人大網健二に対して怒りを爆発し、それを金沢港まで来て私に向けてきたことは前述の通りです。市内配達の仕事中に追いかけ回された、というような話もしていたように思います。

 ただ、笹田君と被告発人大網健二に共通した感じられたのが、何が不満や怒りの原因なのか、さっぱり具体的事実が見えてこなかったことで、感情だけを前面に打ち出していました。

 一度何かのきっかけで嫌いになったら、憎悪を燃やしそれにこだわり続ける性格というのもあるのかと考えたのですが、どちらも迫力があって、演技と疑う余地はなかったという感じでした。あれが演技であれば、なかなか凄い演技力と思います。

 私は100万円ちょっとで買ったホンダの赤色のプレリュードという車種の車に乗っていたのですが、マニュアル車で、ある日突然ミッションが壊れてしまいました。修理代を聞くとびっくりする金額だったと記憶にあります。

 春先だったように思うのですが、被告発人大網健二に相談したところ、車を売ってやると言われ、それが笹田君が、確か新車で購入したというアルトワークスでした。マニュアル車でしたが、当時は画期的な軽四のツインカムターボでした。

 被告発人大網健二が提示したのは50万円で、そのまま50万円で買うことにしたのですが、あとで被告発人大網健二に聞くと、笹田君から買い取ったのも50万円で、コンポーネントのステレオなどいくつかあった装備品を外したと言っていました。

 今まで調べたことは一度もなかったと思うのですが、そのアルトワークスについて少し調べてみたいと思います。

- スズキ・アルト - Wikipediahttps://t.co/FbWEExQoJ7 1990年7月 - 「ワークスRS/X」をベースに、エンジンをSOHCインタークーラーターボに置換し、エアコン、パワーステアリング、専用アルミホイールなどを装備した特別仕様車「ワークス ターボi.e.」を発売。


 他に「1989年5月 - ワークスに特別仕様車「ターボS/X・S/R」を発売。」とありますが、とにかくツインカムターボと聞いていました。

 マニュアル車でバイクのような加速力がありましたが、ハンドルの前のスピードメーターなどの右端に、普通はエアコンの風が出るところだと思いますが、そこから大きなエンジンの吸気音が聞こえるという他に見たことのない特徴がありました。ソレックスという感じです。

 当時の新車価格がわからないですが、そういえば平成2年の春から金沢市場輸送の駐車場でみかけるようになった被害者安藤文さんのホンダトゥディが同じぐらいの新しさに見え、彼女は私の質問に、不満そうに100万円、高いやろ、と言っていたと思います。

 今では聞くことのないツインカムエンジンですが、普通車でもツインカムエンジンというだけで値段がかなり割高になっていたと思います。それにターボーもついていたわけで、ターボー車だけでも割高になっていたと思います。

 何年落ちの中古車ということも当時は考えになかったのですが、ツインカムターボで50万円というのはずいぶん安く感じ、ほぼ即決で買うことに決めたと思います。

 そのアルトワークスの買取ということで、被告発人大網健二と笹田君の売買は成立していたように見えますが、どうも笹田君が、被告発人大網健二の用意した車の購入を反故にしたのではと思われます。

 平成元年12月、S藤を連れて笹田君が金沢港に来た時、笹田君は新車のトヨタトレノに乗っていました。小型車でしたが、フロントグリルとテールランプが違うだけのような車種にレビンがあり、スポーツタイプのようでした。

 その車に同乗し、近くのコンビニのような酒屋に行ったことを憶えています。当時、金沢市内にコンビニというのはなかったように思うのですが、コンビニと似たような店が、他に諸江にありました。

 この諸江の店は24時間営業だったと記憶にあるのですが、イワシの運搬の仕事で行くことも多かったその大野の店は、24時間営業だったのか記憶が定かではありません。

- ファミリーマート 金沢みなと店 から 石川県(漁協) 金沢港支所 - Google マップhttps://t.co/ckOEGp0kg7


 適当な建物がないので「石川県(漁協) 金沢港支所」を選択しましたが、ここが無量寺埠頭というらしく、不当の右手、真ん中からやや先端方向の辺りで、イワシの運搬が行われていました。

 周辺の状況がずいぶん変わり、酒屋の近くにあった「くるまやラーメン」も「八幡のすしべん」の店も見当たらなくなっているのですが、コンビニのような酒屋のあった場所は、現在、「ファミリーマート 金沢みなと店」となっている場所だと思います。

 少し気になったのは、Googleマップで示した経路ではなく、店の正面に向かって右手、金沢大野郵便局がある方向から笹田君の運転するトレノに乗って、店に向かったという場面が1つ、ずっと一枚の写真のように記憶に残っていました。

 被告発人大網健二がBMWの商談で喫茶店に一緒に来ていた女を被害者安藤文さんと特定するような話をしたのですが、私が被告発人安田繁克と被害者安藤文さんとの関係を知ったのは、平成4年1月21日の夜、被告発人浜口卓也の南新保のアパートでのことでした。

 平成3年12月にはよく連絡を取り合ったとも記憶にある被告発人大網健二ですが、平成4年2月の下旬と思われることに一度、金沢市大場町東の被告発人大網健二の家に泊まりで遊びに行ったことがありました。泊まったのはそのとき1回だけだったと思います。

 そのときは被告発人大網健二と彼の妻を前にして、被害者安藤文さんの話をしたのですが、被告発人大網健二は機嫌が良さそうで、なんというのかおだやかで、疲れがあったのかもしれないですが、自分から意見も言わず、私の話をただ聞いていたという印象が残っています。

 逆に、それまでは余り自己主張しなかった被告発人大網健二の妻が、私に意見をするような話をしたことが印象に残っています。具体的な内容は記憶にないですが、その場の雰囲気は記憶に残っており、記憶が鮮明な状態で記述したものは過去にあると思います。

 その頃には、被告発人大網健二の妻と、被告発人浜口卓也の妻がけっこう親しい間柄で、付き合いがあるらしいことも知りました。

 なお、谷内孝志警部補の供述調書に被告発人大網健二の話は全く出てこないと思います。早い段階でそれを意識していました。

〈〈〈 2021/08/14 10:11:22 Linux Emacs: 〈〈〈

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