告発の事実/関与と役割/被告発人安田繁克/平成4年2月1日の深夜、姿を見せるまでの被告発人安田繁克の行動



告発の事実/関与と役割/被告発人安田繁克/平成4年2月1日の深夜、姿を見せるまでの被告発人安田繁克の行動

:CATEGORIES: @kanazawabengosi #金沢弁護士会 @JFBAsns 日本弁護士連合会(日弁連) #法務省 @MOJ_HOUMU #被告発人安田繁克

〉〉〉 Linux Emacs: 2021/08/15 15:48:02 〉〉〉

- 1505:2021-08-15_15:40:47 #告発状 被告発人安田繁克/金沢市場輸送から市場急配センターへ、被害者安藤文さんの「どちらの安田ですか?」という電話対応からの始まりhttps://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2021/08/15/154043


 上記のエントリーに、市場急配センターの2階で被告発人安田繁克と応接席に座り話をしたことは書きましたが、現在の記憶で次に被告発人安田繁克に会ったと思われるのが、先日も少し触れた尼御前サービスエリアでのことです。

 スイカを積んで徳島に向かった被告発人安田繁克から電話があり、私と被告発人安田敏が7180号という金沢市場輸送の大型保冷車で尼御前サービスエリアに行き、4t車からスイカの積替えをしたときのことです。

 この7180号は、川村という名古屋から来ていた運転手が新車で乗務したいすゞの保冷車で、私が乗務した7599号より少し番号が若く、何ヶ月か前に納車されたものです。また、名古屋としておきましたが、愛知県瀬戸市と聞いたこともありました。

 7180号は、ずっと市場急配センターの裏駐車場に放置されていたようにも思うのですが、金沢市場輸送のトラックが市場急配センターの裏駐車場に駐車されていたのは、その平成3年の10月中までだったと思います。

 いつの間にかいなくなったのですが、10月6日には、本恒夫に裏駐車場でトラックを移動するようにいわれ、断ったことがありました。その頃はまだ置いてあったと思います。

 4トン車は保冷車でしたが、油揚げを専用で運んでいたような箱の大きな4トン車で、箱が長く、ホイールベースも長かったように思います。車体も低く、重量には弱そうで、スイカをたくさん積んだことで、走行が不安定とか被告発人安田繁克は言っていたと思います。

 被告発人東渡好信が包丁を持ち出したのと、偶然ではないと思うのですが、計画的に同時実行されたものと断定できる事実もありません。

 被告発人東渡好信が包丁を手にして、被告発人松平日出男の帰りを待ち構えているときに、私は被告発人安田敏と二人で、尼御前サービスエリアに向かったので、そのあとのことも見てはいないのですが、翌日に被告発人池田宏美から顛末を聞きました。

 被告発人東渡好信は、殺してやる、などと口走りながら外で被告発人松平日出男を追いかけ回したという話でしたが、たまたまいた被告発人松平日出男の同行者が、被告発人東渡好信を止めたと被告発人池田宏美は話していました。

 被告発人東渡好信は背は高くなかったと思いますが、ずんぐりした体型で腕力はかなりありそうでした。私の目の前で、石川丸果の荷受けのおじいさんの首根っこを片手で掴み、キャベツの箱の中に押し込んだことがあったのですが、軽々とした感じでやっていました。

 被告発人松平日出男がたまたま武道の達人と一緒にいたとも考えにくく、包丁を手にして、外で人を追いかけ回すというのは、それだけでも信じがたい話でした。

 その被告発人松平日出男を襲撃した動機というのも、金沢市場輸送で乗務していた新車の大型ウィング車を、被告発人松平日出男が市場急配センターに払い下げると、竹沢俊寿会長と二人で決めたのが気に食わないという話でした。

 その年の4月ぐらいになるのか、2台ほぼ同時に納車された大型ウィング車で、トラックのカラーがそれまでの金沢市場輸送のトラックとは違ったもので、白地に赤と青のラインが入っていました。本恒夫の娘の考えたデザインという話もありました。

 もう一台は浜上さんが乗務していて、浜上さんの方は日野だったような気もするのですが、被告発人東渡好信の方は三菱ふそうのトラックだったような気がします。

 2台ともその後、市場急配センターで浜上さんと被告発人東渡好信が乗務したように思いますが、この金沢市場輸送のカラーのトラックは、市場急配センターで見ていなかったような気もするのです。

 被告発人安田敏が乗務したのも金沢市場輸送から持ってきた大型ウィング車でしたが、10月か11月になって、市場急配センターの青とピンクの太いラインに塗り替えとなりました。他に塗り替えたトラックは記憶にありません。

 その塗り替えに被告発人安田敏と一緒にトラックを持っていったのが、川上板金で、昭和62年頃、関係者KYNが、板金の修理を頼んだところ、相談もなしにエンジンの載せ替えをしたと言われた板金屋です。その時も私は関係者KYNに同行していました。

 当時、川上板金には、能都中学校の同級生のYMが働いていました。輪島のAという男も働いていたようですが、昭和58年の秋に、金沢で活動する輪島の暴走族の藤江のたまり場に行った時、そこでいろいろと話を聞いていた人物です。

 輪島のMYの紹介で、しばらく金沢市場輸送でも仕事をしていた人物ですが、それも平成2年の秋だったかもしれません。一緒に仕事をしたことはなかったですが、金沢市場輸送で麻雀をする姿は何度か見かけていました。

 被告発人松平日出男は、横領で石川トヨタをクビになったあと、金沢市内の黒田で中古車店をやっていたという話もしていました。その辺りにそれらしい中古車店は1つしかなかったと思うのですが、昔、ちょっと立ち寄ったことのあるような店でした。

 被告発人松平日出男の横領の話は、被告発人松平日出男が金沢市場輸送に来てすぐに聞いたのですが、竹林に熱のこもった話を聞いたことは、印象的に憶えています。同じ部署とは聞かなかったような気もしますが、竹林も石川トヨタにいたという話でした。

 その横領の原因についても、竹林は被告発人松平日出男が競馬に狂っていたと話していました。

 市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってから一度、被告発人浜口卓也と一緒に金沢競馬場に行ったこともありました。夕方前の時間に仕事が終わってからのことです。

 金沢市場輸送でも輪島のYAなどが競馬をするようになったのですが、平成2年のことで、その頃に何度か連れて行かれたのが、金石街道沿いの「しげちゃん」というお好み焼き店でした。お好み焼き店だったと思いますが、居酒屋のような店でした。

 5,6件ほど飲み屋が集まったところにある店で、ジャスコ若宮店よりバイパス寄りで、金石方面に向かって左手でした。今もあるのかもしれないですが、昨年の3月に、その前の道路、金石街道の店とは反対側の歩道を歩いていました。

- お好み焼き しげちゃん - Google マップhttps://t.co/1uB8BOKn3z


 同じ名前の店が今もあるようです。平成2年当時もけっこうな年の人にみえたのですが、その店の主人も競馬が好きという話で、金沢競馬場で見かけたようなこともありました。

 平成3年12月に被告発人多田敏明をこの「お好み焼き しげちゃん」に連れていき、市場急配センターの会社に戻り、前に停めていたトラックの中で、初めて被告発人多田敏明に被害者安藤文さんとの関係を話したように思います。

 被告発人多田敏明の第一声は、「広野さん、事務員、食ったん?」でした。被告発人浜口卓也のときも意味は同じで、「お嬢、食ったんか?」でした。被告発人浜口卓也だけが被害者安藤文さんのことをお嬢と呼んでいたのですが、そういう雰囲気を感じていたようです。

 ちょっとGoogleで検索したのですが、「お嬢」も「お嬢様」も同じような意味になっているようです。他に使っているのを聞いた覚えはないのですが、ヤクザ映画などで、組員が組長の娘を「お嬢」と呼んでいたので、そういう意味合いがあるのかと思っていました。

 被害者安藤文さんがヤクザの娘に見えることはなかったのですが、無口で気が強そうに見えることはあり、被告発人浜口卓也は、「お前、あの女の顔見て普通でないがわからんか? きっかん顔しとるやろい。」とも実際に言っているのです。

 被告発人浜口卓也が実際にどう思っていたのか確かなことはわかりませんが、被告発人らに作られたイメージで、私に強く印象づける狙いがあったのかもしれません。

 その1月21日の夜、被告発人浜口卓也は最後の方に、「鬼のような女やな」といい、でもいいとこあると思ったことある、と前置きし、そこで被害者安藤文さんが被告発人安田敏に会社で弁当を渡していた、弁当を作ってきていた、という話をしたのです。

 この弁当の話は、被告発人梅野博之の供述調書にもあります。被告発人浜口卓也の供述調書は何年も読んでいないので、内容が思い出せないですが、ページ数というか供述調書の記載自体が少なかったと思います。

〈〈〈 2021/08/15 17:14:37 Linux Emacs: 〈〈〈

〉〉〉 Linux Emacs: 2021/08/16 10:44:38 〉〉〉

 金沢市場輸送の7180号は、輪島のMYがけっこう長く乗務していました。昭和61年の年末の納車かもしれません。平成3年にはすっかり現役引退のポンコツという感じでした。

 金沢中央卸売市場のなかにある高瀬商店については前にご説明をしたことがあると思います。その高瀬商店の前で被告発人安田繁克と話をしたことがあったのですが、平成3年の8月中であったように思います。

 そのとき被告発人安田繁克は、金沢市場輸送の配車係で社長の本恒夫が大阪の運送会社とトラブルになり、右翼団体の街宣車が100台ぐらいでやってくる、というような話をしていました。私はすっかりその話を信じたのですが、実際に来たという話はその後聞いていません。

 その大阪の右翼団体の話をした時、被告発人安田繁克は金沢市場輸送の大型保冷車7180号に乗務し、高瀬商店の前に駐車したそのトラックの車内で話を聞いたように思います。その場所で大型車の車内で話をすることは意外に珍しいことでもありました。

 輪島のMYとは、金沢市場輸送の長距離の仕事で、最も泊まりが一緒になったとも思うのですが、どちらかの大型トラックの車内で長い時間話しをすることが普通にあり、7180号に乗ることも多かったと思います。

 東北便の場合、仙台降ろしの行き荷も多く、朝一番に荷降ろしをして、そのまま塩釜市に行って定期便の帰り荷を積むことも多かったのですが、配車の都合で翌日積みになることも多く、どちらが多かったのか思い出せないですが、半々に近かったかもしれないぐらいです。

 どちらかといえば、他の運転手と一緒になるのは石巻が多かったかもしれません。昭和62年から63年に、ちょうど1年間ほど、守田水産輸送の青森定期をやっていました。これは行き荷だけで、金沢から秋田・青森に鮮魚を運ぶ仕事でした。

 もともと守田水産輸送がやっていた青森定期ですが、これを金沢市場輸送の大型保冷車と一日交代でやるようになり、帰り荷は石巻の東北陸運の定期便を積むことになっていました。まれに違った荷物を八戸港から積むこともありましたが、ほとんどは石巻でした。

 金沢市場輸送は九州の福岡の定期便もやっていたのですが、昭和59年には始まっていたかもしれません。これは守田水産輸送と同じ金沢の金沢中央卸売市場の近くの運送会社、ウロコ運送との一日交代の定期便でした。

 福岡の定期便は、行き荷がトナミ運送の雑貨で、当時の新湊市になるのか富山中央店、途中から砺波支店に立ち寄るようになり、卸先は北九州市と福岡市で、どちらも九州西武運輸でした。帰り荷が福岡市内の長浜の魚市場で、金沢まで鮮魚を運ぶ仕事です。

 昨日書いた、九州の日栄運送と池田運輸の駐在員は地元九州の人で、日栄運送は熊本の人でした。名前を忘れてしまいましたが、当時の金沢市場輸送の内情をよく知る人物です。

 池田運輸の駐在員は、若くて、彼もきさくでよく話をしましたが、佐賀県のどこかの人と聞いたようにも思います。ただ、日栄運送の駐在員とは違い、金沢市場輸送の他の運転手の話は余り聞かなかったように思います。日栄運送の人は情報通という感じで、石川県とは違った県民性も感じました。

 福岡の長浜の魚市場は、市内の中心部でしたが、金沢の人、金沢大学を卒業したとも聞いていたSTさんが駐在員で、魚市場の近くのマンションに住み、他の金沢市場輸送の運転手は余り行かないという話でしたが、私はよくその部屋に泊まりに行っていました。

 夏場はエアコンがあって涼しかったのと、部屋にたくさんの本があったので退屈しなかったことがあります。よく出前の寿司をふるまってもらったのですが、下関の小口の荷物を不満も言わず立ち寄りで積みに行っていたからとも思われます。

 金沢への定期便の他に、フリーと言って、その福岡の魚市場に入ることもあったのですが、鮮魚を運ぶ行き先は、ほとんどが大阪か東京でした。東京は築地市場ですが、他にも中継でなく、横浜などの市場に降ろしに行くことがあり、こちらの方が下関の立ち寄りより大きかったかもしれません。

 金沢からでも東京の築地市場は中継が基本で、場内中継となっていましたが、私はほとんど売り場に入っていました。東北陸運も場内中継と聞いていましたが、一度だけ東北陸運の仕事で築地に鮮魚を運んだような記憶もあります。築地の場内は大変でしたが、経験値と自信になりました。

 福岡から東京はほとんどノンストップです。時間が遅くなると場内が混み合い、大変なことになるので、私は当たり前のようにほぼノンストップで急いで向かっていました。なお、金沢中央卸売市場でも23時過ぎ辺りを境に、混みだしていました。

 売り場の荷降ろしは先着順なので、前のトラックが荷降ろしを終えるまで待つことになります。自慢になるかもしれないですが、こういう緊迫感のある仕事をしていたので、市場急配センターの仕事などお遊びのようなものでした。それが運転手としての評価にもつながっていたようです。

 青森の鮮魚の定期便は冬場が大変で、地吹雪の中を疾走しましたが、市場の鮮魚の仕事とは違った、居眠り運転などより生命の危険を感じながら体力の限界ギリギリでやっていたのが中西運輸商の佐川急便の仕事、広島九州便でした。これで鍛えられたのが何より大きかったかもしれません。

 この告発状をすべて読む人は限られてくると思います。モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)が名誉毀損で逮捕されたり、金沢地方検察庁や石川県警察が動けば、事情も変わってくると思いますが、大事なことはあえて見出しから外し、書いておこうかと思います。

 書き方の違いでこれまでにも記述してきた事実関係ではあります。金沢市場輸送に入社した昭和59年は、仕事ぶりも態度もすこぶる悪い評価で、2度目に入社した昭和61年8月は、配車係だった藤村さんに、何かあればすぐにやめてもらう、という条件での入社でした。

 その昭和61年は3月に結婚し、6月に長男が生まれましたが、2月いっぱいで中西運輸商を辞め、辞めた理由というのも長期の免停でした。90日と150日の免許停止だったと思います。同時に2つの免停になったのは、県外での違反もあったのだと思いますが、本来は免許取り消しとなるような違反点数でした。

 免停中は、歩いて通える近所の道路舗装工事の会社でアルバイトをし、6月の中頃に免停が終わったと思うのですが、それからすぐに行ったのが岐阜県海津町で、9月からのライスセンターの仕事を条件に、工務店のアルバイトのようなことをやりました。

 山下工務店と聞いていたように思いますが、会社に行ったような記憶はなく、ライスセンターの敷地にある古い平屋の集会場のような建物で寝泊まりし、そこから仕事の現場に行き帰りする生活でした。三重県の四日市市の近くの現場が多かったように思います。

 海津町の沼のような川の草刈りもやったのですが、時代劇に出てくるような風景でした。このライスセンターの仕事を紹介され、同じ建物で寝泊まりする生活をしたのが、被告発人安田敏になります。

 岐阜県海津町のライスセンターの仕事は出稼ぎ労働で、富田という人が歴代の世話役という感じで、主に珠洲市から若者を集め9月から12月の10日頃までと聞いたライスセンターの仕事をやっていたようです。

 地元の工務店に頼まれサービスのようなかたちでライスセンターの仕事が始まる前に工務店の仕事を手伝っていたようですが、正確なことは思い出せないものの、3ヶ月ちょっとで120万円ぐらいになるとか、戻ったあとは出稼ぎの失業保険がもらえるとも被告発人安田敏は話していました。

 長い間、読んでいない被告発人安田敏の供述調書には、私との関係がさらりと書かれ、観音堂のアパートでの生活や、この岐阜県海津町の生活のことも存在は、うかがわせる余地もなかったと思います。

〈〈〈 2021/08/16 12:11:14 Linux Emacs: 〈〈〈

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です