#告発状\金沢地方検察庁 ### Twitterでブロックされ続けている元検事の市川寛弁護士、ずっと影響を受けてきた下平豪検事の幻影との重なり
Googleで市川寛弁護士の所属弁護士会を調べたのですが、簡単には見つかりそうもなく、上記のまとめ記事を作成してページ内検索をしました。最初に東京弁護士会が出てきて、次に第二東京弁護士会が出てきたのですが、検索方法を変えたところ法律事務所のホームページが出てきて、そちらに第二東京弁護士会とありました。
- 弁護士紹介 華鼎国際法律事務所 東京都港区新橋にある法律事務所です。 https://kanae.lawyer/lawyer.html
次は同じ「市川寛 弁護士会」という検索結果ですが、東京弁護士会の広報誌のようなPDFファイルで、2009年2月号に「広報委員会 市民交流部会 委員 市川寛(45期)」とあります。
- 広報委員会 市民交流部会活動報告 市川寛(LIBRA2009年2月号) https://www.toben.or.jp/message/libra/pdf/2009_02/p32-33.pdf
PDFファイルのタイトル名は英数字だけのものが多いのですが、日本語になっていました。
顔は被告発人若杉幸平弁護士の方が似ていた印象の下平豪検事ですが、細身の体型で神経質そうなところが似ている印象となっていた市川寛弁護士です。テレビで突撃のインタビューを受ける様子を動画でみたのですが、その時は顔にモザイクがありました。それから5,6年ぐらい後になるのか時期の記憶は曖昧ですが、同じ動画のモザイクのない映像をこれもテレビで見かけたような記憶です。
目的外ですが検索結果の2つ目に次の記事があります。
佐賀地方検察庁・松井洋新検事正:「治安の維持、それから法秩序の維持を担う佐賀地検検事正として、安心安全な生活を送ることができるよう微力を尽くして参りたい」
松井洋検事正は、東京都出身の53歳です。京都大学法学部を卒業後、1992年に検事となり、東京地方検察庁の交通部長や福岡地方検察庁の次席検事などを歴任、2月26日付けで佐賀地検の検事正に着任しました。
記者会見で、松井検事正は「近代司法制度の父、そして人権の父といわれる江藤新平が生きた土地で、検事正を務めることは非常に身が引き締まる思い」と抱負を述べていました。
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- 「人権の父・江藤新平」出身地の佐賀で佐賀地検検事正に「身が引き締まる」【佐賀県】|佐賀のニュース|サガテレビ https://www.sagatv.co.jp/news/archives/2021031005277
幕末から明治初期の江藤新平という人物は、日本初の司法大臣だったような記憶ですが、佐賀の乱を起こし処刑されたように思います。歴史上気になる人物の一人ですが、詳しい話を読む機会がなく、西郷隆盛とは違って反乱の動機というのもわかっていません。西郷隆盛の場合は不平士族に担がれたという話を何度か見かけてきたように思います。
江藤新平と人権というのも意外ですが、さらに「人権の父」とあります。江藤新平が亡くなった年も正確には記憶にないですが、まだ弁護士という言葉がなく、代言人と呼ばれていた時代になるのかと想像します。
佐賀県は葉隠で武士道のイメージが強いですが、1,2年ほど前になるのか、官本で読んだ小早川隆景の言葉としてネットで調べたところ、葉隠の作者の言葉という情報だけが見つかるということがありました。作者の名前は思い出せなくなっています。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。
東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議、佐賀征韓党首を歴任。
立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、わが国近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に「四民平等」を説き浸透させた。
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- 江藤新平 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
没年から生年を引くと40年ですが、40歳より前に司法大臣になっていた可能性があると気がつきました。昨日か一昨日に平均寿命が40歳という情報を見かけていて1905年となっていたような記憶ですが、その当時に有期懲役刑の上限が20年に決められたという話になっていました。
Wikipediaのページには「帰郷後は佐賀の乱の指導者に推され、征韓党を率いて政府軍と戦うが敗れる。高知県東部の甲浦で逮捕され、佐賀城内の臨時裁判所で死刑に処された。」とありますが、斬首されたとみたような記憶です。その後は銃殺刑が多かったという印象で、斬首されたということでは歴史上最後に知る人物としても印象にありました。
征韓論に破れるというのは西郷隆盛と同じようです。西郷隆盛の最後は介錯人がいたと本で読んだ記憶があります。これも官本になりますが、「○○どん、このへんでよかろう」といい、場所は鹿児島市内の城山だと記憶にあります。○○の名前は記憶にないです。
Wikipediaのページには「江藤氏は肥前小城郡晴気保の地頭で」とも記載がありますが、佐賀市の近くの小城という地名で思い出すのは、山口判事のことです。これも拘置所で読んだ本で最初に知ったように思いますが、平成5年頃に自分で購入した精神医学関係の一般書だったような気がします。ネットで見た情報では佐賀に戻り自宅で療養中に亡くなったような話でした。ずいぶん長く山口判事の情報は見かけたことがなく、知らない人がほとんどかもしれません。
1. はじめに
山口良忠判事(33)か、(34)か
今年は、山口判事(1913~1947)が、故郷佐賀で死んでから55年目。私は、その祥月命日である10月11日をはさんで、2週間ほど佐賀県内で講演をやり、それと並行して、20数年前に「われ判事の職にあり」を書くために6年間かけて取材した資料のうちから66点を選んで映像構成しパネルにした「ドキュメント展」を伊万里市民図書館で開いた。
昭和史もそろそろ歴史の大河の中に消え去ろうとしている。「山口判事の死」について、最近の刊行物やインターネットのページを開けて検索してみる。驚く。まったく、ひどいもんだ。やれ、敗戦の混乱期に生まれた神話だの、聖人願望の産物だの、官僚幻想だの、いや、法律至上主義の非常識な裁判官だの、「佐賀葉隠れ武士」の自殺志向型だの、とさまざまな議論が出てくる。
- 山口判事没後55年に思う - 寄稿 - 北海道弁護士会連合会 https://www.dobenren.org/contribution/yamaguti.html
函館弁護士会の存在は知っていましたが、ほとんど情報や話題を見ることがなく、同じ北海道の札幌弁護士会、旭川弁護士会、釧路弁護士会との違いでも前から気になっていました。
『われ判事の職にあり』出版以来20年が経ち、とっくに絶版になり、神田の古本屋街からも姿を消した。そして、著者は古希をはるかに超えて老い、昨秋、宿痾のC型肝炎から発症した肝臓ガンの手術を受け、再発を抑える点滴注射を1日おきに受けている。この辺で何とかしておかないことには、山口判事の人間像は、道化師か鬼神か奇人変人に虚構されてしまうではないか。何が歴史的真実か。
ともあれ、私は、本を書くにあたり、「事実の認定はすべて証拠による」をモットーに、山口判事の人生の軌跡を一々追跡し、6年間かけた。
関係ある資料を探し回り、多くの写真・図面・手紙・日記・随筆・判決などの「物証」を収集した。多くの「人証」を得た。判事夫人をはじめ兄弟姉妹や親戚縁者や小学・中学・高校・大学時代の学友や恩師、裁判官時代の同僚裁判官や立会書記官や立会検察官や関係した弁護士や警察官や知人隣人と直接面談し、多くの生き証人から多くの証言とそれらを裏付ける録音テープ・写真・手紙など参考資料を入手することができた。苦労した。しかし喜びのほうがはるかに大きかった。取材を通じて、何度も感動させられ、励まされ、勉強させられた。
- 山口判事没後55年に思う - 寄稿 - 北海道弁護士会連合会 https://www.dobenren.org/contribution/yamaguti.html
何故にさっさと帰ったのか。私は、その理由をすでに掴んでいた。別な写真も持っていた。当時、老父山口良吾氏が農村青年のために自費で開いた「弥栄義塾」という夜学塾で、山口判事は、高校の3年間、助手をしていた。無報酬である。塾生は100人もいた。「若先生」と慕われていた。その義塾の建物の写真を示して説明したとき、同氏は、日暮れ時の庭の方に目をやっていたが、「ああ、知らなかった。ぼくらは何も知らなかったなあ。」と涙をぼろぼろこぼしながら泣いた。若くして逝った級友に詫びる光景に私はどんなに感動したことか。
- 山口判事没後55年に思う - 寄稿 - 北海道弁護士会連合会 https://www.dobenren.org/contribution/yamaguti.html
時刻は13時57分になります。長い記事を読み終えましたが、時計の時刻は思ったほど進んでいませんでした。「函館弁護士会 山形道文」とありますが、漢字の並びで医師会に見えてしまいます。「われ判事の職にあり」という書名だけは前に見かけたことがあるように思いました。
佐賀県伊万里市の市民図書館とありますが、佐賀市内からはかなり離れていたような記憶で、2,3度通ることがあったような記憶です。一度は荷物の卸先だったかもしれません。
距離で見ると46.7キロから55.1キロと遠くないですが、Googleマップの地図上で見るとかなり離れて見えます。伊万里市は長崎県松浦市に向かうときの通過点となっていたようです。
- 孔子の里│多久聖廟 http://www.ko-sinosato.com/
孔子廟だけのGoogle検索では出てこなかったですが、「孔子廟 佐賀県」で多久市が出てきました。こちらも通過点として大きな看板などを見かけた記憶ですが、他にも情報を見かけたことがありました。
- 有田焼(ありたやき)とは|有田観光協会 ありたさんぽ https://www.arita.jp/aritaware/
昭和60年頃、中西運輸商の4トン車で、この有田焼で有名な有田町に荷物を運んだような記憶を思い出しました。
多久市は唐津市に向かうときの通過点にもなりそうです。唐津市に入ったという看板が出てきてすぐの農村部のようなところでしたが、金沢市場輸送で集中的にミカンを積みに行った時期がありました。富山県富山市の池田運輸の仕事になります。
佐賀市の近くの小城という地名は小城市となっています。この近くに牛津という地名があって、当時の石川県鳳至郡能都町宇出津と石川県珠洲郡内浦町小木は、漢字の読みがいずれも同じで、距離も同じぐらいという位置関係に思えていました。佐賀県の牛津は牛津町になっています。
Darwin
/Users/a66/mac-bin/h3-mysql-regexp-html.py -s "山口.*八坂神社"
SELECT * FROM tw_hirono WHERE tweet REGEXP '山口.*八坂神社' ORDER BY date ASC;
2023-07-19_142348の実行記録
- (1/1/669647:検索:山口.*八坂神社)ツイート:@kk_hirono()2021-03-01 14:59:59
> Twilogでは結果が多かったのですが,大阪府東大阪市の鴻池で,同じ中西運輸商の佐賀県の運転手の人と話をし,そのときにお米の話が出てきて,昔は米どころだったと聞きました。闇米を拒否し餓死したという山口判事のことで,佐賀県の八坂神社が実家だと知ったのも数ヶ月前のことです。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1366266906492116995
~ 6s
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- 山口良忠【白石の至誠人・判事】(2022.03.08) | 佐賀を駆け抜けた風 https://saga-rian.com/life/sagawokakenuketakaze/news/news-101855.html
Googleの検索結果からリンクを開くと、初めて見るような大きな顔写真が出てきて、生首を連想してしまいました。小城市か牛津町の近くという記憶だったのですが、白石町とあります。住所は佐賀県小城市のような記載もあります。
杵島郡白石町の八坂神社宮司で教育家でもあった山口良吾・クマの長男として福治村(現・白石町)大字廿冶1248番地において大正2年11月16日生をうけた。父の転勤に伴い3つの小学校を転校し、鹿島中学校から佐賀高等学校を経て京都帝国大学に進学。
人としての生き様を説く厳格な父の元に育ち、京都帝国大学卒業後の昭和14年4月司法官試補を命じられ、実務修習(いわば、判事、検事の卵で判検事たるに必要な人格識見の涵養と実務の習得をするために、一定の裁判所及び検事局で実地において生きた事件や事務をすること)のため横浜地方裁判所へ配属された。
昭和16年6月甲府地方裁判所への着任と同時に判事に任官、若き裁判官としてスタートを切り、自分の進むべき目標に向かって邁進した。
- 山口良忠【白石の至誠人・判事】(2022.03.08) | 佐賀を駆け抜けた風 https://saga-rian.com/life/sagawokakenuketakaze/news/news-101855.html
杵島郡というのは見たことのあるような地名ですが、佐賀県とは違ったようなイメージとなっています。
- 白石町移住計画 | このまちで暮らしたい。 https://www.shiroishi-town.jp/lp_iju/
小城市の一部で杵島郡白石町は旧地名なのかと思ったのですが、白石町役場の住所が佐賀県杵島郡白石町となっていることを確認しました。
白石という地名は、福島県と宮城県の県境付近の白石市の印象が強いのですが、有明海に面しているとわかりました。隣が佐賀県鹿島市で、その先に太良町があり、国道207号線となっていますが、長崎市に向かうのによく通った覚えのある国道です。白石町も通過していたようですが、佐賀県では今日になって初めて見たような地名で、なぜ前回、Googleマップで八坂神社の場所を見ながら気がつかなかったのか不思議にも思えます。
八坂神社の宮司の長男が裁判官になったというのも珍しく感じられますが、昭和16年に判事となる、とあります。家父長制で世襲が多い時代と思われます。
昭和22年(1947)9月1日に2件の判決を言い渡した後、同月7日に白石町(昭和11年4月1日町制)へ帰郷し療養するも、10月11日、栄養失調に伴う肺結核により33歳で死亡。
八坂神社境内には、『病中日記』に記された短歌をもとにした「帰り幾し古里のそ羅かくばかり青かりしとは志らざしか奈」を記した歌碑が建てられている。
参考文献:山形道文『われ判事の職にあり』昭和57年初版
- 白石町ホームページ |山口良忠(やまぐちよしただ) https://www.town.shiroishi.lg.jp/jyuumin/manabu/yukari/_1161.html
白石町のホームページに参考文献と掲載がありますが、担当の被告人が100人や裁判所の階段で倒れたという話は、今回初めて知ったように思います。
そういえば、市川寛弁護士が検事を辞めることになったという事件も佐賀市の辺りで農協が摘発になっていたような記憶です。
市川さんは、二〇〇〇、〇一年に佐賀地検の三席検事として、農協幹部らによる背任事件を担当。自白に追い込むため、取り調べの際に暴言を吐いたことを法廷で証言し、最終的に被告人は無罪となった。
- 冤罪生んだ異常捜査 元検事の市川弁護士が自身体験赤裸々に:中日新聞しずおかWeb https://www.chunichi.co.jp/article/474731
「2022年5月22日 05時05分 (5月22日 05時07分更新)」という割と最近の中日新聞の記事ですが、三席検事というのは初めて見たように思います。もう2,3年以上になるのかと思いますが、三席検事という言葉を見かけなくなり、たまに思い出しては、なくなった役職名なのかと考えることがありました。
- Taro11-20060720160559.jtd https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/233/008233_hanrei.pdf
判決文のPDFファイルで「平成16年1月29日宣告」とあります。ページタイトルが英数字のファイル名に見えてjtdが拡張子に思えたのですが、Taro11というのはワープロソフト一太郎のバージョン11になるのかもしれません。
たしかバージョンは11で、再審請求のことで金沢地方裁判所に行った帰りに、金沢市高柳付近の100満ボルトの家電店で箱入りのパッケージを買ったような記憶があります。ワープロソフト一太郎です。
- 一太郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%A4%AA%E9%83%8E
平成15年2月発売とあるので、これは記憶通りかと確認しました。
佐賀地裁は共犯者に対して有罪判決を下したが,被告人については「不正を認識できたか疑問」として無罪を言い渡した。検察は控訴したものの,福岡高裁も佐賀地裁の判断を維持した。
後日,被告人の取調べを担当した検事が,取調中に「ふざけるなこの野郎。ぶっ殺すぞ。」などと言って自白調書を作成していたことが明らかとなり,担当検事は検察庁から厳重注意処分を受け,その日に辞職した。
違法な取調べという問題が,決して過去のものでないことを証明している事件である。
- 雪冤プロジェクト - 冤罪事件データ詳細 http://setuen-project.com/detail.php?NAME=&SKEN=41&STATUS=0&SY=&SY2=&KIJI=20100803112814&PAGE=0
共犯者がいて共犯者は有罪判決が出ていたようです。共犯者の話というのも記憶にはないですが、続きがないので有罪判決は確定しているのでしょう。
下平豪検事の場合、怒鳴るようなことはなかったですが、異様な興奮状態で威圧的でした。「ふざけるなこの野郎。ぶっ殺すぞ。」という発言は久しぶりに見かけて、はっきり記憶になかったことになりますが、下平豪検事の取調べと重なるような場面を思い浮かべていました。下平豪検事の場合、直接取調べはしなかったのですが、司法修習生が作成した供述調書を反故にし、自分が作成していた供述調書に告発人廣野秀樹の署名を強く求めてきました。それも夜の23時頃という時間でした。
- 法曹界人事 ― 日本法総合オンラインサービス[ウエストロー・ジャパン]|2023.04.10付 法務省人事 https://www.westlawjapan.com/p_affairs/2023/20230410_mj.html
前に調べたときは横浜地検でしたが、今年2023年の4月10日付、法務省人事で東京地検刑事部長とあります。地方検察庁の刑事部長という役職は、余り見かけることがなく、職務の内容もイメージがしづらいですが、部長とあるので管理職にはなりそうです。裁判所の場合は当然に刑事部と民事部に分かれていることがわかりますが、検察庁の場合、刑事部以外は特別刑事部を別にして、別の部署というのがイメージしづらく、東京や横浜という大規模なところにだけある部署なのかもしれません。
別に調べたところ、刑事部のほかに公判部や公安部があるようです。大きな検察庁では刑事部と公判部が別になっているという話は、割合ちょくちょくと見かけてきました。
平成11年の8月から9月頃に金沢地方検察庁の司法修習生の検察教官のような立場だった下平豪検事ですが、同じ金沢地方裁判所の法廷にいた被告発人小川賢司裁判官は、現在、水戸地裁総括判事となっています。ぶっつけ本番で連れ出された演劇の舞台のような法廷でした。とても簡単に終わったことだけ強く印象に残っています。
その下平豪検事が戦慄したのは、告発人廣野秀樹ではなく、金沢弁護士会の弁護士数人の態度振る舞いだったのではと、つい最近になって考えるようになりました。令和5年7月7日付告発状で初めて、被告発人小川賢司裁判官、被告発人野田政仁弁護士、被告発人小堀秀幸弁護士を被告発人に加えています。金沢地方検察庁の担当者は、その点に関して全く無反応だったので、織り込み済みのようにも思えました。
2分ほどしばらく考えてから思い出したのですが、7月7日に能都郵便局で発送を済ませ、宇出津小学校の校門から少し入ったあたりで、スマホから金沢地方検察庁に電話を掛け、そのときに初めて4人の被告発人の追加をお知らせしたのでした。ちょうど電話を切る直前のタイミングで、大きな音花火が鳴りました。14時だったと思いますが、宇出津あばれ祭の昼の部の始まりを知らせる音花火です。