告発に至る経緯/金沢中警察署/安藤健次郎さん/2021年10月6日の夕方に発見し、その夜の夢に出てきた「証拠番号5」、平成10年に安藤健次郎さんに郵送した書面になるらしい、補足を追加

告発に至る経緯/金沢中警察署/安藤健次郎さん/2021年10月6日の夕方に発見し、その夜の夢に出てきた「証拠番号5」、平成10年に安藤健次郎さんに郵送した書面になるらしい、補足を追加

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〉〉〉 Linux Emacs: 2021/10/07 13:32:19 〉〉〉

 発見の経緯については、次の前回エントリーの終わり近くに記述があります。

- 告発に至る経緯/金沢中警察署/安藤健次郎さん/弁護士と縁日、刑裁サイ太のツイートも高野隆弁護士の「法廷で綿菓子」に繋がっていたらしい、やりたい放題の弁護士に踏みじられた人生を思う | 告発・非常上告_2021\金沢地方検察庁御中http://hirono-hideki.info/wp/?p=1826

 上位の分類が「告発に至る経緯/金沢中警察署」になっているのは意外で、「告発の事実」のつもりでいました。内容は告発の事実ですが、書面の作成時期は、安藤健次郎さんと金沢中警察署との関わりを含めた告発に至る経緯にあたるので、それでもよいかと思います。

 これまで269行まで補足を加えながら読み込み作業を行っています。現時点で末尾は756行となっていますが、改行のないずいぶん長い行もあります。次に引用というかたちで、補足を区切りに記述を行います。

証拠番号5

平成三年五月下旬
主要事項
① 一日一万五千円の日当の話がきっかけで、急配に入社。

②この頃いつの間にか池田も転社。

③市内配送の仕事をする。

平成三年六月中
特になし

平成三年七月中
主要事項
①東度の包丁事件と安田某スイカ積み替え

②七月十八日、妻家出する。

③一度二階事務所に、私と、池田と、彼女と、松平といたところ、松平の提案で、彼女が松平のおごりでアイスクリームを、希望を私に訊いて買いに行った。彼女は、私の頼んだレモンのアイスを買って来てくれた。

平成三年八月中
主要事項
①妻子、一度神戸より戻ったが、すぐに戻った。

②中頃に、私が妻の実家にいって離婚届を渡した。

③東力町内の焼き肉屋で、松平主催の飲み会があった。(25日頃)

言葉
「大丈夫」(彼女)

福井刑務所における再審請求時の追加記載
二階事務所で、池田が文さんに、彼氏のことを話しかけ、彼女は、高校のとき以来いないと答えたことを、八月中のこととして付け加えておきます。11/9

平成三年九月中
主要事項
①8/31)日通白菊倉庫にて、神奈川県厚木市行きの荷物を安田と一緒に積んだ。(積み置き)

②(9/1)安田と一緒に2313号で出発(大糸線経由)

③(9/2)厚木で降ろし、東京晴海でバナナを積んだ。

④(9/6か7)事務所前で、彼女の乗用車6601号、大倉さんの4トン車に後部をぶっけられた。あるいは、13日か14日かもしれない。

⑤(9/11か18)前日に晴海から積んできた(2313号で)バナナを早朝6時より石川丸果バナナセンターで降ろす。A.M9時頃出社松平に、午後4時から館山農協に梨を積みに行くように指示を受けた。そして、会社面前で、自分の乗用車アルトワークスにフィルムを貼り始めた。
初めに4トン車で大阪に向かう津幡のYTと多田が集まり、それにマルモ整備のパンチパーマの男が加わっていたところ、突如、彼女が加わって、手伝ってくれた。
午後になって、一時半だったかに、私が一人で作業をしていたところ、彼女が来て、手伝いをはじめてくれた。途中、松平、竹沢、松平の友人のカベヤがそれを見て驚いていた。
カベヤは、「お前ら、夫婦やったんか?、と驚きの声をあげた。」
彼女は、「そんなん、見えるけ」と答えた。
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⑥館山に行くちょっと前、浜上さんに福島の白河市の日本工機の地図を渡してくれるよう、彼女に頼んだ。

⑦(9/14か、あるいは21)私は、午後四時頃、石川経済連に、津幡のYTが持ってゆく馬鈴薯を2313号に積んだ。その時、トラックの中に赤い小物入れ袋を忘れた。
その日は、大網周一さんの結婚祝いに出席するため、早めに退社して、午後五時頃自宅に戻った。そしてすぐに、忘れ物を思い出し、会社に電話を掛けた。
KYN君の自宅に寄って、一緒に私の軽四に乗って、午後七時頃、大場町東213の4の、大網健二君宅に到着した。すでに、浜口さん、姫のNKさん、AKさんなど集まっていた。
夜中に、KYN君の運転で自宅に帰った。
翌日の朝か昼、会社に行って、トラック2313号の中より忘れ物を持ってきた。その時会社は無人であった。
言葉
彼女は、「私、取ってきてあげるか」と言ったくれた。

⑧(9/14か21)私は午後から片山青果か柿良青果の仕事で、中央市場の地野菜売場より青果物を積んで、マルエー松任店、小松市の若宮店(マルエー)、マルエー根上店に行った。
そして、五時頃、会社に戻ったところで、山梨の桃の回収容器を4トンウイング車に積む作業と私の乗用車が障害となって、立ち往生しているような見えた6601号に乗る彼女に、私はかけつけて、自分の軽四を移動してあげた。
でも、近くに行って見ると、私の軽四はそれほど障害になっていなかった。
これは初めて記述するが、午前中に松平に頼まれて、松任に誤配の荷物を取り替えに行ったのも、この当日であったかもしれない。また、その時、私が、松任のなんとかママと言うサラダなどを作る食品工場から会社に電話を掛けたとき、彼女は黙ってあまり返事をせず、なにかを訴えかけるように感じられたことがあった。
言葉
彼女は初め、私の顔を見て満面の笑みを見せたが、移動後は、私の会釈を無視して走り去っていった。

⑨(下旬の某日)二階事務所にて、私が池田に金沢信用金庫中央市場支店にて作成したキャッシュカードの郵送において不在であったため、泉野郵便局に取りにくるよう通知があったことを話しかけたところ、彼女がうれしそうな声をあげ、池田が「印鑑とかいるし、本人じゃないといけんよ」などと冷静にやさしそうに彼女をなだめた。
言葉
「それ私の家の近く、私行って来てあげる」と彼女
また、この数日前であったと思います。昼頃二階で、彼女と二人切りになり、彼女は私に、「今度、後ろの方にもフィルム貼りたくないけ?......なんか後ろの車(人)から丸見えって、嫌やぞいね」などと話しかけてくれたことがあった。
そのあと彼女は、電話を取っていずこかに電話を掛け、「山下さんいますか?、アンョウです」などと言ってすぐにそれを切った。
また、この頃、二度ほどこの当日もそうであったのですが、私と二階で二人切りになると彼女は席を立って台所にゆき、そこで化粧を直しておりました。
また、フィルム貼りを実際に手伝ってくれた日の数日後(二、三日後)、彼女は台所付近で話しかけてくれ、私が自分の車に貼ったフィルムの色が薄かったことより、濃い方が良かったと言ったところ、彼女は明るい声で、「私、薄い方がいい」と言ってくれたのです。ちなみに彼女の車のフィルムは濃い色であります。

(2021年10月07日補足:)泉野郵便局となっているが、はがきに金沢南郵便局だった記憶。9月ではなく8月の後半とも思っていた。

⑩九月下旬の某日
私は、安田の自宅に掛けた電話で、彼女が好きで交際を求めようか迷っていると告白した。すると安田は、明るくなだめるように、「やめとけや、ダメやったら大変なことになるぞ、同じ会社でこれからどうやって顔合わせてゆくんや」などと説諭するようなことを言った。これは20日頃ではなかったかと思います。

(2021年10月07日補足:)10月に入ってからすぐと思っていた。

⑪九月下旬の某日
私が午前十一時頃、事務所階段の出入り口にとめてあった、動かなくなった朝野のソフトバイク(たしか、ホンダロードバル)にまたがってエンジンをかけようとやっていたところ、その前に停めてあった6601号に乗り込もうとした彼女から突如声がかかった。と思ったら、二階の窓から叫ぶような池田の声がとどろいた。

(2021年10月07日補足:)朝野とあるのは浅野かもしれない。石川トヨタで被告発人松平日出男の同僚だったという人物、初めにあった頃に被告発人松平日出男が競馬の横領で首になったことを当然のように話し始め、違和感を覚えた。いつの間にか会社で姿を見かけなくなった。1月の片山津温泉ではまだ姿があったような気がする。

言葉
「どっか行くが、送っていってあげるか?」=彼女
「ダメよ広野さん、乗ったらダメよ、どっか行きたいんやったら私の車使いなさい。」=池田

(2021年10月07日補足:)被告発人池田宏美が二階の窓から自分の車のキーを投げつけたような記憶。それだけ慌てた様子にも見えた。

⑫九月下旬の某日
これは二十日頃だったように、あるいは月末だったように思います。初めて記述することであります。
その日私は午前九地頃に出社して、それから一階控え室で、一人で日報を書いておりました。そこに彼女が二階から降りてきて、なにか仕事のことを尋ねたのです。少しはにかんだような明るい感じですごく好感を覚えました。
この当日であったか、それともかなり後日であったか、午前十時頃に、私が二階に上がろうとしたとき、上から降りてきた彼女は、私の顔を見て、泣きそう顔をして走り去っていったのです。これは彼女の話しかけに私がひどく遠慮してあまり応じなかったためと思われ、それと、今思うと、池田がよからぬことを彼女に吹聴していたためであったのかもしれません。
そしてこのことが、10月5日の私の交際申し込みのときに、彼女がそれを断って見せた直接の原因としてつながっていたように思われるのです。とにかく彼女はかなり傷付いていた様子でした。私に直接の身に覚えがないことから考えても、池田がよからぬことを言ったことはまず間違いないように思います。そしてこの事が、私に、彼女に自分から交際を申し出ることを決意させたのです。誤解とは言え、傷つけてしまったから、その償いのような気持ちもあって、私は自分から直接彼女に告白をしたのです。また、絶対の気持ちがあったからこそ、駆け引きなどせず、ズバリ申し奉ったものであります。
また、なぜ、私がこれまでこの事を記述しなかったのか、それは余りにも時期がはっきりしないからであります。
また、その階段で彼女とすれ違った時、そこに偶然朝野がいたように思うのです。これは後述する10月12日の夕方の時と同じような状況でした。

⑬九月下旬から十月上旬にかけての某日
その日正午頃、多田の友人であり、市内配達の運転手である中村りょう太が、堂野さんの愛人の息子である大野君を同乗させて、西金沢方面に向けて配達中、金沢市玉鉾五丁目と米丸町の境あたりで、一時停止を無視して信号機のない優先道路に進入し、乗っていた二トン車を横転させ、優先道路を通行していた乗用車を民家の玄関先に突入させるという事故を起こしたのであります。
私は安田と一緒に、散乱させた青果物を収拾するなどの事後処理に向かいました。その時、偶然近くに仕事に来ていた大網健二君と現場で出会ったことを覚えております。
また、その後私は、松任の石川製作所に荷物を積みに行きました。
事故現場に駆けつけたときも、同じ2313号だったと思います。また、石川製作所で、安田と一緒に荷物を積んで午後四時頃会社に戻ったところ、ちょうど一階の控え室の前で、池田と彼女と、他二人ほどの市内配達の社員が、回収してきた青果物を整理していた光景を私はよく覚えているのですが、その時私は、彼女との関係は錯覚であったとほとんどあきらめたような気持ちになっていたと思います。なぜだがよく覚えていないのですが、その場面における私の心境だったように思います。しかし、絶望や落胆と言ったものではなく、ただ、思い違いであったと思ったようであります。
それと、なにか満足そうであった安田の顔を覚えております。自分の反対意見が私に絶妙の効果を与えていることに内心ほくそ笑んでいたのかもしれません。もしくは、本当に彼女が私など相手にするわけがないと思っていたのかもしれません。

(2021年10月07日補足:)
 金沢市玉鉾五丁目と米丸町の境あたり、とあるのはたぶん地図で確認した住所、入江だと思っていた。あるいは間明にも近かったかもしれない。3〜5人で歩いていた被告発人大網健二と現場で居合わせたことは、ここに記述が見当たらない。被告発人大網健二は面白いものを見物した様子で満足そうに見えた。これも8月中の出来事だと考えていた。

⑭九月の終わり頃か十月の初め頃の某日
これも、午後四時頃であったとは思います。先の 中村りょう太の事故の当日と似たようなうららかな天気の日でした。
私が一階控え室にいたところ、津幡のYTだったか、誰かが、発泡スチロールの魚箱を、二階の階段の出入り口の所において、数人の人がそこに集まってきたのです。なにかと思い私も見にゆきました。すると松平が、誰かに、二階に行って池田さんらを呼んでくるように言ったのです。この件で、私は初めて彼女の名前が「安藤」であることを知ったのでありますが、これは今考えてみると、どうも松平が意図して私に名前を教えたように思えてなりません。なぜなら、それまで松平は、ずっと、池田と同じように「文ちゃん」と呼んでいたのです。
言葉
「上に行って、池田さんと安藤さんにサンマ欲しかったらナイロン袋持って取りにくるように呼んでくれ」=松平

(2021年10月07日補足:)
 平成9年9月中の出来事として、運転手控室の建築工事が始まり、10日か長くて2週間程度で完成したこと、金沢市場輸送の給油機の鍵のこと、被告発人安田繁克が出来たばかりの運転手控室に顔を出したことの記述が見当たらない。

平成三年十月

1 十月の初め頃(あるいは、9/28土曜日の夜かも)
主要事項
その日、私は初めて(急配に入社して)岐阜の市場に馬鈴薯を持って行ったのです。そして、夜十時頃だったかに(あるいは八時頃だったかも)、私は岐阜の市場で荷卸しをして、すぐに、そのまま金沢に戻る途中、岐阜羽島インターの近くの一般国道より安田敏の自宅に電話を掛け、彼女に交際を申し込む相談をしたのです。その時私は、自販機でおみくじソーダなる缶ジュースを購入したところ、それに恋愛運絶好調などと記してあったことから、私は気を良くしてさらに決意を固めたことを覚えております。そしてこの時の安田は、かなり親身で友好的であったと印象に残っております。
あるいは、10月5日の前日だったのかもしれません。

2 10月5日土曜日
主要事項
その日私は、正午頃、出社と同時に、安田、東度、浜上、竹沢、松平、朝野、池田(河野さんはもしかするといなかったかも)などと、そのまま会社内に入らないままレストラン十字に行ったのです。
そして、そこでミーティングが行われ、ステーキセットを食べました。食事が終わると、私はすぐに、その会議の途中より考えていた、留守番中である彼女に電話を掛けようと思いついたことを実行しようと思ったのですが、すぐに慌てて出てきたため自分の軽四の中に財布を忘れ一円も持っていないことに気づいたのです。10円さえあれば0120で通話できると思い、安田に少しでも金を貸してくれ、と頼んだのですが、安田は私の考えを察したのか、全く持っていないとはねつけました。そこで私は頭をひねり回し、乗用車だったかのスペアーキーをジャスコの中の以前利用したことのある鍵屋に行って作ることを口実に思いつき、そして池田に言って、初め千円だったかを貸してくれるように頼んだのですが、一万円しかないと言われ、それを借りて私は会議の途中に出てジャスコの鍵屋に鍵を渡し頼んでから、その近くのエスカレータの横の公衆電話に行って、そこから会社に電話を掛けたのです。
すぐに思ったとおり彼女が出ました。私は、思いあまって声が出ず、それを切ってしまいました。そして暫くして勇気をふるってもう一度掛けたのです。
言葉
「もし、もし、広野やけど」(私)
「はい」(彼女)
「あの、頼みあるんやけど」(私)
「..........」(彼女)
「今晩、おれの自宅、電話掛けてきてもらえんけ?」(私)
「はい」(彼女)
「あの、電話番号.......書くものあるけ?、92の1563」
「はい」
「はい」

(2021年10月07日補足:)
 被告発人安田敏に10円がないと言われたことはなんとなく思い出したが、鍵屋のことは記憶になかった。被告発人池田宏美に借りた1万円のことも。

それで、夜八時頃に彼女に電話を掛けてくれるように頼んだのです。彼女は、事務的にたんたんと「はい」と答え、私の自宅の電話番号さえ訊こうとはしませんでした。あらかじめ予想していた当然の成り行きと言ったような感じさえありました。全く動揺がなかったのも、今思えば、彼女の配慮だったと思います。そしてそのことごとくの足を引っ張ったのが地獄の安です。
それから十字に戻ると、ちょうどみんなは店から出てきたところでした。私は来たときと同じように、誰かの車に同乗して会社に戻りました。
それから、私は、裏駐車場で朝野さんに一万円を渡し、池田に返してくれるように頼んだのです。その日私は、一度も二階事務所には顔を出さず、よって、彼女の姿も見ることはありませんでした。
《補足》
会社を出るときだったと思うが、二階の窓から顔を出している彼女の姿を見たように思う。誰かに用事があって探しているような感じだった、と印象にある。

それからすぐに、私は安田と東度のトラックに同乗して、羽咋あたりの海に近い所にある肥料工場のような所に行って、東度の積んできた一つ60㎏のズタ袋を汗にまみれて卸したのです。そして、その途中に東度の目を盗んで、私は安田に、彼女に電話を掛けたことなど、それまでのいきさつを話したのです。安田は、明るく「まあ、半々やなぁ」とか、言ってくれました。そして、冗談ぽく励ますような、まあ、がんばってやってくれ、と言った感じでありました。
それから、私たちは会社に戻り、私と安田は、そのまま石川丸果の倉庫に行って、2313号に名北行きの馬鈴薯を積み込んだのです。
なぜこの時松平は、私を休ませ安田に一人で名北に行くように指示をしたのか、あるいは、これも、計算ずくしだったのかもしれません。本来ならば、安田に運転指導として私を一緒に行かせるのが妥当ではないかと疑問を感じたことを覚えております。あるいは、すでに、当夜彼女に私から申し込みがあったなら断るように、池田を通じて手を回したあったのかもしれません。
それが終わってから、私は、安田を誘って諸江町のオートバックスに行って、それから、軽油グループのガソリンスタンドで給油をして会社に戻ったのです。安田は結果を教えに電話を掛けてくれと言い、ダメやったら明日一緒に名北に付き合ってくれと冗談ぽく言っておりました。それと、電話が掛かってこないような脅かしのような、不安を煽り立てるようなことも言っていたと覚えております。

(2021年10月07日補足:)
 9月下旬のことかとも思うのですが、事務所1階に運転手控室ができてしばらくすると、その控室に1つだけあった事務用の机の引き出しに、会社関係者の電話帳がありました。あいうえお順で開けるアドレス帳のようなものでした。住所の記載があったのか記憶がはっきりせず、それを確認したいと思っています。

3  10月5日夜の電話
主要事項
8時を7,8分ほどまわって電話が掛かりました。「もしもし安藤です」、彼女の声はすこぶる明るいものでした。それがかえって、安田の言う、彼女の余裕のあしらいと同僚としての気遣いとして感じられたのです。私は本当に金がなかったので、冗談にも一緒に連れていってくれとはいえませんでした。飲みにはあまり行かない、好きではないようなことをはっきりと言ったように思います。私は、ゆっくり話したかったのに、なぜ彼女は時間を短く限定して宣告したのか、配慮に乏しいのではないかと正直言って不快に思いました。それでなおさら腹をくくってズバリ言ったのです。「友達って、女の人け?」、「文ちゃん、彼氏おるが?」。
私は安田が言うように、やはり彼女は彼氏がおりながら会社での対面を考えてごまかしてきたのか、やはり、それが今時の女の子の常識なのか、残念、無念に思ったのです。その諦めがかえって大胆となり、私は思い切っていったのです。「あの、もし良かったら、できたらおれと付き合ってもらえんけ?」。彼女はすかさず、「ごめんなさい」と言いました。そしてまるで追い打ちを掛けるように「私、好きな人おるし」と言ったのです。
言葉
「もしもし安藤です」
「今日どこも走らんかったん」
「給料もらった?月曜日になったやろ、私一万円頼んで前借りしてん。それで今から友達と片町飲みに行くげん。広野さん飲みに行ったりせんが.......八時半に友達迎えにくるげん」
「う....ん(もったいぶって)残念ながら女の子なんです」
「う....ん」(もっと時間をかけて、いかにも答えにくそうに)
「いないんです。ハハ.」(軽い笑い声)
「ごめんなさい」
「私、好きな人おるし」

私は、ただただ打ちひしがれ、もう立ってもおられないようにへたり込むように「あきらめる」と言って、「気にせんといてくれ」などと言って電話を一方的に近い状態で切ったのです。
それから、私は安田の自宅に電話を掛け、ダメだったと伝え、酒をあおって眠りました。夜中に目が覚めました。テレビがついたままになって、恋愛物の洋画をやっておりました。それを見ると私はますます落ち、落ち、落ち込んでしまう内容だったのです。今思えば、この夜が本当に悪夢の始まりでした。

4  10月6日日曜日
主要事項
それから私は眠れない夜を過ごし、朝になって安田の自宅に電話を掛け、一緒に名北に行くことにしたのです。AM10時30分頃に金沢(会社を)出発して戻ったのはPM8:00時頃だったと思います。

(2021年10月07日補足:)
 名北とあるのは名古屋北部市場のことです。住所は名古屋市ではなく、名古屋市に近い小牧市だったと思います。

5  10月7日月曜日
主要事項
その日、私が朝会社に出社すると、昨夜裏駐車場に停めてあった2313号の前の方が若干ではありますがぶつけられておりました。松平は完全に安田を疑ってかかったのでありますが、それを私が証人として無実を説得したのです。今思えばこれも松平か東度の工作だったのかもしれません。彼女はすまなそうに反省しているような様子でした。なるべく顔を合わせないようにしたことを覚えております。
また、その日、裏駐車場に本が来て、私にトラックを移動せよと命令したことを覚えております。私は断りそれを一蹴しました。

(2021年10月07日補足:)
 本とあるのは金沢市場輸送の社長兼配車係だった本恒夫のことですが、休日の午後という雰囲気があったので、名北から戻った前日6日のことかと思っていました。本恒夫が来た時、被告発人安田敏の姿はなく、私、一人だったと思います。
似たような時間帯と場所、天候で、被告発人東渡好信の妻が被告発人東渡好信を探しに来たこともありました。時期がはっきりしませんが、10月の同じ日と考えたことはあったかもしれません。
曇りがちでしたが、たまたま天候が良かったのか冬のように寒くはなかったと記憶にあります。あるいは平成4年2月中かもしれません。

6  10月9日か11日頃
主要事項
これは初めて記述することです。その朝、午後一時過ぎ頃、私は一人で二階事務所で池田が来るのを社長の机に座って待っておりました。この事は外に出ていた池田も彼女も知っていたはずなのです(詳しい事情は覚えていない)。まもなく池田と一緒に外に出ていた彼女が一人で二階事務所に入ってきました。つまり、私と彼女は二人切りになったのです。彼女は私の顔を見ると、自分の机の方には向かわず台所の方に行きました。そこで暫く沈黙が続き、私は本当になにか池田に用事があったので座ったまま台所には行って姿の見えない彼女に「池田さんは?」と声をかけたところ彼女は「下におる」と答えたのです。そのあと私は下に降りて池田の所に行ったのですが、今思えば、これも池田と彼女が相談して決めて実行した機会であったに違いありません。その時の彼女は冷たい感じでした。私に対し、いらだちのようなものを含んでいたように感じられました。
言葉
「池田さんは?」
「下におる」

(2021年10月07日補足:)
 これは記憶になく忘れていたのかと思います。被告発人池田宏美が1階の運転手控室にいる姿は見た記憶がないのですが、もっと具体的に記述しておけばよかったと悔やまれます。

7  10月11日(?)
主要事項
その日正午前頃、私は出社と同時にか、出社後暫くして、一階控え室においてS藤と安田某と会い会話したように思います。その時が安田某が片町で暴行を受け怪我をしていたときであったかもしれません。その時私は、二階で給料をもらってきたところでした。そこで私は銀行に行くのにS藤を付き合わせ、それから、市場輸送の旧事務所(西念町リの1)の建物の中のうどん屋の隣の小さな食堂で、食事をおごって一緒に食べたことを覚えております。
その時S藤は、会社の裏駐車場に、60万円だったかで最近購入したという、かなり旧型(57,58年型)のトヨタマークⅡを停めておりました。そして、津幡町あたりで前から付き合っていた女子大生と同棲し、近くのとび職の会社に勤めているようなことも言っておりました。
私は以前上申書の中でもこの事柄を、十一月の中頃か12月の中頃ではなかったか、と記述したように思うのですが、それは私の勘違いでこちらの方が確かだと思います。また、上申書の中でもそのように訂正したように思います。
なぜなら、十一月の給料はすべて文さんが北国銀行に持っていってくれたからで、12月の給料は、12月20日をかなりすぎてから年末近くになってもらったからです。なのになぜ私が勘違いをしたのか、と言いますと、それはS藤と一緒に銀行に行ったとき、私は北国銀行の面前に軽四を停めたからであったと思います。つまり十月のその時点では、私が入ったのは金沢信用金庫だったはずなのです。しかし、その記憶は今も私にはありません。

(2021年10月07日補足:)
 S藤が、運転手控室に来たのは9月中が最初と考えていました。S藤が安田某とある被告発人安田繁克と二人で市場急配センターに来たというの記憶ははっきりしないのですが、運転手控室が出来てすぐの頃は、金沢市場輸送で大型平ボディ車に乗務していた輪島の運転手が2人で来ていました。
 「その時が安田某が片町で暴行を受け怪我をしていたときであったかもしれません。」とありますが、被告発人安田繁克が目玉に赤い斑点を作る怪我をしていたときは、運転手控室で彼と二人で、そこに2階から被害者安藤文さんが降りてきて、弁当のことで私に声を掛けたのです。
 金石街道沿いで、市場急配センターからはジャスコ若宮店の手前、左手に「かまどや」のような弁当店があり、そこに被害者安藤文さんが被告発人池田宏美と二人分の弁当を買いに行っていることは聞いていたのですが、買ってきてもらったことはなかったように思います。
 しばらく前に、被害者安藤文さんが他に弁当を買ってきて欲しい人はいないかと声を掛けていたようなことはありました。また、ジャスコ若宮店の中の芝寿司の店舗でも、鮭弁当か鳥弁当を買いに行っていた様子で、2、3度、会社から芝寿司の弁当をもらったことがありました。
 S藤には、最後に1万円を貸し、それ以来、市場急配センターにまったく姿をみせなくなったのですが、それまでに3回ぐらいは顔を出し、話をしていたように思います。

8 10月12日土曜日
主要事項
その私は、朝から松平の指示で、入江と玉鉾あたりに(多分ウェルマート)配達に行ったことを覚えております。そして、会社に戻る途中に、私は大豆田大橋の近くの入江の交差点を玉鉾方面から来て信号待ち中に、右交差点を西金沢方向から金沢駅西口方面に走行する天皇陛下のパレードを目撃したのです。
それから私は、会社に戻って二階に上がったところ、彼女と二人いつものように机に座っていた池田が、私に「広野さんお払い行くの、私たち二人一緒に連れていって....私大きいトラックって、まだ乗ったことないげん。一回乗ってみたいと思とってん。ねえ、文ちゃん」、のように声をかけたのです。私は、彼女の「ほんなん、池田さん乗ったことないが、私運転してみたいぞいね」、のような明るい社交的な言葉に、彼女は誰か他の運転手にトラックに乗せてもらったり、親しくしていたことがあるとばかり思い、そして、彼女はそのような水商売の女のような軽い性格があると思って、これもかなりの失望を受けたのです。そして、私は、返事もせずに仕事のことだったかに話題を変えたように思います。
それから午後四時頃になって、予定よりかなり遅れて日野自動車が新車である3068号を持ってきました。そして、平成三年三月中頃の浜上さんの三菱の新車の仮見試乗の時と同じように、会社面前に真横に駐車させられたのです。その時、私たちは皆二階事務所におり、松平も池田も、そしてカベヤも居りました。カベヤは彼女に声をかけ、冗談ぽくワシが運転して乗せてやろうか、などと言いましたが白けたようでした。
それから私はすぐに新車に乗って、石川護国神社にお払いに行ったのです。時間が早ければ池田の勧めた、以前7559号の新車乗務時にも行った鶴来の白山神社に行こうかとも思っていたのですが、午後四時頃にもなっていたので、又、あらかじめ遅くなることが予想されたので、私は近くの護国神社に電話で確認を前もってしており、それですぐに向かったのです。

福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆ この納車が遅れた件(本当は昼過ぎに来る話だった)について羽、松平の根回しだったかもしれず、日野自動車に確認できればよいと思います。11/9
☆ トラックが来るちょうど10から20分ぐらい前に、松平はカベヤと他二人くらいと会社に戻ってきたのです。
お払いをしてもらい会社に戻ったのは、夕方五時二十分頃だったと思います。本来ならば、すでに彼女は退社している時間だったのです。しかしなぜか、その日彼女は、六時近くまで会社におりました。これは全く初めてのことであったと思います。そこで、その退社に直前に次のようなことがあったのです。私と安田が会社前で、新車を見ていたところ、彼女が二階から駆け降りてきて、私に「広野さん、今日どっか走るが?」、のように言ったのです。
 その直後に、私は池田に用を思い出して、彼女の後を追うようにして二階に向かったのです。そのところ、階段の途中で、二階から来た朝野が、二階に戻る彼女を呼び止めて、彼女に、自宅に帰るついでに市川タイヤまで乗せていって欲しいと頼んでいたのです。彼女は本当に嫌そうな顔をして、返事をためらっておりました。このように朝野は、入社当時ちょくちょく彼女にちょっかいのようなことを仕掛けていたようですが、それも彼女の態度を悟り、まもなくすっかりやめたようです。
《補足》
訂正浜上の新車のことを平成三年の三月と書いてありますが、これは明らかな間違いで平成四年の三月のことです。

(2021年10月07日補足:)
 お払いとあるのはお祓いの間違いです。被告発人池田宏美に、被害者安藤文さんと二人トラックに乗せて欲しいと言われたことは、ずっと記憶にあったのですが、お祓いに一緒に行くというのは記憶になく意外に思いました。白山比咩神社までだと片道で小一時間はかかりそうです。
 新車の納車が16時頃になったというのも記憶にはなく、白山比咩神社まで行くのは遠いので、大型車でもお祓いができる近くの大きそうな神社に電話をしたものと考えていました。
- 白山本宮 白山比咩神社(加賀國一ノ宮) から 市場センター - Google マップhttps://t.co/kTYDjtYXJX
 Googleマップで調べたところ、市場急配センターから白山比咩神社は、国道157号線と国道8号線経由で36分、21.4キロ、国道8号線経由で39分25.0キロとあります。平成4年当時は道路事情も今ほどよくなかったので、やはり小一時間は所要時間としてみておく必要がありそうです。

9 10月12日土曜日夜
主要事項
その日の夜の様子を要点だけを取り上げ次に記します。
★午後七時から八時半頃に、私の自宅に二、三回無言電話が掛かった。
★午後十時四十分頃、私は104番号案内にて、初めて彼女の電話番号を知り、自宅から彼女の自宅に電話を掛けた。彼女の母が出て彼女にかわってくれた。私は無言電話の件で、今日会社に自分に宛てそれらしい所在を尋ねる電話はなかったか、訊ねた。彼女は、私は受けていないと答えてくれた。私は礼を述べて電話を切った。
言葉
「ちょっと待って.....(階段をかけのぼる音が聞こえた)....はい」
★私は、10分ほど迷いに迷ってもう一度彼女に電話を掛けた。彼女はすぐに出てくれた。私はすぐに「この前の話やけど、もう一度考えてみてもらえんけ?」、のように申し向けた。彼女は「.....(暫く考えて)..ごめんなさい」、のように答えたが、そのあとやさしく話しかけてきてくれた。それで会話は十二時に十分ほど前まで続いた。途中私は遅いから切ろうかと言うと、彼女は「大丈夫や」、のように言ってくれた。
 その電話を切った直後、離婚後初めて、八月の初め頃以来、前妻より電話が掛かった。前妻は、それ以前の私の長電話をいぶかしむ様子は全くなく、無言電話のことも全く知らないといっていた。(それまでの時間帯、前妻は仕事中であった可能性が強い。)
話の内容は覚えておりませんが、あたりさわりなく三十分ほどで終えたように思います。

(2021年10月07日補足:)
 無言電話のことはずっと憶えていましたが、1回だけという記憶でいました。2,3回続いたとあります。時間の幅も19時から20時30分とあります。それから被害者安藤文さんの自宅に電話を掛ける時間も間が大きいのですが、遅くて22時30分という記憶になっていました。
 電話が0時10分前、11時50分頃まで続いたとあります。被害者安藤文さんはしんみりした様子で、話を続けるきっかけを作ってくれ、臨機応変で頭の回転が早いという印象も受けました。遅くて23時30分頃までと思っていたようですが、0時近くまでというのは意外でした。

10 10月中頃
主要事項
10月の中頃の様子は、次のようなものであったと思います。
★神戸L4より高崎に向けて走行中、北陸道徳光PAより午後五時頃会社に電話を入れたところ、彼女が対応に出た。
★大阪府堺市、通称泉北より石川丸果 に向け、青果物(キウィなど)を積むにつけ会社に午前九時頃より十一時半頃まで電話を掛けたのであるが、いずれも彼女が出て、社長は不在だと言い、三十分づつあとにかけ直すように私に言った。
★水曜日の休市日すなわち17日か24日あるいは30日のことであるが、当日私は、前日に石川丸果 倉庫で積んだ大阪府高槻市全農に向けの馬鈴薯を出発するところ、早めに午前中に出社してトラック(3068号)にフイルムを貼ろうとしたところ、途中二階に上がって誰にともなくマジックを貸してくれるよう申し向けたところ、彼女は真っ先に「はい」と言って、マジックを差し出したが、それは水性のようであったので私は受け付けなかった。その時彼女は、泣きそうな顔をしていた。ちなみにそのマジックとは、十月の初め頃(これは初記述)、私が彼女にマジックを借りたところ色が出なくなってしまったため、私が新品を購入して彼女に渡した。十色入り700円ぐらいのものであった。また、二階で私がそれを彼女に渡そうとしたとき、彼女は、私が壊したマジックは会社の物でであって私物ではないと言って受け取りをためらっていたのであるが、それを見た池田が、明るく諭すように、「広野さんの文ちゃんにあげるプレゼントや、もらっておきなさい文ちゃん」と、助言したもので、彼女が受け取ってくれたマジックである。また、私は、それが水性であるか否かは知らなかった。ただ、彼女の交際を断りながら気を引く姿に反感を覚えたからそれに応じなかったものである。
 そして、午後二時頃になって彼女は退社していきました。そのあと私が大阪に向け出発するところ、東度が池田の乗用車に同乗していずこかに走り去るのを私は目撃したものであります。その翌日、私は神戸L4より高崎行きを積んだように思います。(高槻から神戸に向かったことははっきりしている。)

(2021年10月07日補足:)
 マジックとあるのはマジックペンのことかと思いますが、被害者安藤文さんに渡したというのは記憶にありませんでした。それらしい買い物は王様の本入江店でしたような記憶はかすかにあります。
 神戸L4から高崎に向けてとありますが、これは富山県高岡市の間違いだと思います。高崎で思い当たる地名は群馬県高崎市だけになりますが、その頃、神戸から外果を高岡市の市場に運んだことは、しっかり記憶に残っていて、午前中に高岡の市場で荷降ろしをしました。
 高岡市の市場で荷降ろしをして金沢に戻り、金沢市大場町東の被告発人大網健二の自宅に遊びに行ったと思うのですが、金沢東インターの近くの金沢トラックステーションにトラックを駐車し、被告発人大網健二の車に乗せてもらって自宅に行ったとも記憶にあります。
 北陸自動車道の徳光パーキングエリアとあるのは、金沢西インターの手前にあるパーキングエリアになります。この運行で大阪府高槻市に向けて出発したのは、金沢中央卸売市場が休みの水曜日でした。月1回か2回で水曜日が休市となり、最初に記憶にあるのが平成3年9月です。

11 10月下旬頃
主要事項
右当時の主な事柄は次のとおりです。
①19日か26日の土曜日
その日、私は会社にて、安田と一緒に午後より暇を持て余しておりました。まず安田が二階に上がって、彼女にコーヒーの作り方を教えてもらい。それから安田は、片町のことなど話題にして話しかけておりました。
 そして、夕方五時をまわって私が退社して東力に丁目の自宅に向かって軽四を走行していたところ、長田地内あたりより追跡するような彼女の車(6601号)に気づき、新神田あたりで、それをはっきり確認したのです。
その夜、私は自宅より、二度目の彼女の自宅への電話をしました。午後七時半から八時頃だったと思います。それから二時間ほど会話をしたように思います。会話の内容は現在覚えておりません。

福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆私が今日は飲みにいかんかったんと切り出したところ、彼女は、友達みんな用あるって.....だやいしやめてん、と話したことは実によく印象に残っております。また、すこぶる穏やかでありました。11/9

②26日か11月2日の土曜日
その日、私は、神戸市の中央市場の近くのバナナセンターより高岡・富山行きのバナナを積み、当日の夜に高岡の市場に着き、夜中に富山の市場に移動し、朝より富山で卸し、高岡で卸し、昼頃には金沢に戻ってトラックステーションにトラックを駐車させて、迎えに来てもらった大網君の自宅に遊びに行きました。
また、その神戸にゆく前日か前々日に、前妻より自宅に電話があり、その時私は、文さんとの事はダメになったとばかり思いこんでいたこともあり、暫く前妻と会話を交わしたもので、その時前妻は、神戸の湊川公園の近くに住んで、その近くの市場で働いているようなことを話しておりました。
 また、私が神戸のバナナセンターから戻った二日後か三、四日後にも前妻から電話がありました。私はその時前妻に、数日前に神戸に仕事で行った旨を話したのです。

十一月上旬
右当時の様相と主要事項は次のようなものです。

①十一月の初め頃の休日(3日、4日、10日のいずれか)、私は安田の自宅に行って、彼を誘って、片町にキャッシュカードで金をおろして洋服を買うつもりで出かけました。しかしカードはどこも使用できず、私と安田は結局近江町まで歩いて行き、そこでくるくる寿司を食べて、車を停めた竪町の有料駐車場まで戻って帰って来たのです。

②その日夜の八時頃、突如前妻より電話が掛かりました。当日その時点で、私は文さんに電話を掛けるか、かかってくるのを待っていたこともあり、前妻の態度が復縁を求めるようになってきていたこともあり、私は前妻に対し冷たく対応したのです、そしてそのあとの文さんの電話でも、私は彼女に、交際はあきらめているから気にしないで、構わないで欲しい旨を伝えたように思います。
 また、この電話(文さん)の前の、数日前の電話では、二時間以上に及び私は彼女と会話していたような覚えがあり、一方、前妻からの電話も、最終的には十一月十日頃にかかってきた時、私が腹を立てて(先方が喧嘩腰であったので)それを一方的に切ってしまったのですが、それが年内最後の前妻からの電話だったように思い、また、その当日にも私は文さんと電話で話をし、この時は短い話で、ほとんど一方的にあきらめるからもうこれで電話は掛けないと申し向けて、彼女の返事を得ないまま切っているのです。そしてこの次に、私が彼女に電話を掛けたのが、およそ半月後の十一月二十五日なのです。
 だいぶ右の通り話がややこしくなってしまったのですが、それは今の私の記憶の通り実に混然としているのです。事件直後の記述ほど正確だと思います。今では、会話の内容も当時の状況も断片的にしか覚えておりません。
《補足》
最後に前妻から電話があった時、彼女はうれしそうな感じだった。久しぶりにみた態度だったが以前にはちょくちょくあった機嫌のいいときの話しぶりだった。私はすぐそれを一蹴して二度と電話を掛けないように宣告したのである。以前の彼女の性格からしてすぐにまた掛けてくると思っていたが意外にもそれっきりだった。したがって、これ以降に前妻から電話が掛かったことも、それ以前に電話で口論のようになったことも考えにくいかもしれない。しかし、それが絶対だとは言い切れない。記憶が鮮明に近かったことを考えると一度私が不愛想な対応をした数日後に電話があったこともあり得るかもしれない。
 また、前妻に絶縁を宣告した直後の電話で文さんにもはっきり断りを告げたがこの時だけは真剣な気持ちでその旨を話した。それ以前の電話でもほとんどの場合最後の方であきらめると告げていた。

十一月中頃の状況

①私は給料をもらってその運行前に池田に給料を渡し、北国銀行中央市場支店で通帳を作ってくれるように頼みました。

②東度は古河の青果市場で夕方荷積み作業中、山三青果のベルトコンベヤーに指を挟んだと騒いでおりました。山三青果の人達はいずれも東度のことを最も良く知るものでありますが、完全に白けきっておりました。

③東度の代わりに津幡のYTがベニヤを積んで東京都東大和市に行き、翌日私と古河の市場で一緒になりました。

④安田は、会社より東度のトラックに乗って七尾のパチンコ屋にいた東度にそれを届けたそうです。

⑤東度は多田を連れて古河の市場に来ておりました。その時、私は初めて個人的に親しく多田と話したのです。また、この時点でも私は彼女との関係はすっかりダメになったものと思い込んでおりました。

⑥その日昼頃、私は昼前に池田に通帳のことを聞かされ「彼女に行ってもらった」、「30万円と3万円を別々にしてしまった」、「彼女は、今、出かけている」それから私は、多田を誘って昼食に行ったのです(これは、古河で親しくなった直後のように思われます)。 そして私は昼食を多田におごってからジャスコ若宮店に行き、そこで2000円のチーズケーキと250円ぐらいのショートケーキを4個買って会社に戻ったのです。
 そして車から降りるときに多田にそのケーキを二階に持っていって池田さんに渡してくれるよう、お前も一個もらって食べろと言って頼み、そして一階控え室に入ったのです。 そのところ間もなく私に、津幡のYTが子供のことで話しかけ、私が返答をごまかして話題を変えようとしていると、そこに東度が、まるで斬り込むようにここぞとばかり「もうそんな必要ないもんな、ひでき」のように申し向けたのです。つまり私は離婚したので子供におもちゃを買ってやる必要もなくなったなどと勝手に山下に説明を始めたのです。 私はいたたまれなくなって控え室より出ました。その出たところで、二階から私の新しい通帳を持って降りてきた彼女にばったり会ったのです。彼女は控え室に入る直前だったのです。私はそれを受け取ったのですが、東度の言葉に憤慨していたためまともに彼女にお礼すら言えなかったのです。
言葉
「ありがとう(彼女)」

⑦11月16日だと思います。私は一人松平に誘われて、中央市場前の食堂に連れて行かれたのです。その時、松平は初めて私の離婚のことに触れました。そして会社に戻る途中の中央市場内高瀬商店の横の公衆トイレの前あたりで、松平はベンツを運転しながら二度目の悪魔の嗤いを見せたのです。ちなみに一度目は、九月の中頃私と彼女が会社の前でフィルム貼りをしていたのを見た二、三日後二階事務所においてです。
言葉
「時々子供に会っとるんか」(松平)
(2021年10月07日補足:)
 変わった場所にある変わった食堂でした。かなりレトロな雰囲気で看板もないような店でした。10月中あるいは9月中とも考えていたように思います。実際、そのように記述しているかもしれません。

- ./hatena-diary_20051215:⑦11月16日だと思います。私は一人松平に誘われて、中央市場前の食堂に連れて行かれたのです。その時、松平は初めて私の離婚のことに触れました。そして会社に戻る途中の中央市場内高瀬商店の横の公衆トイレの前あたりで、松平はベンツを運転しながら二度目の悪魔の嗤いを見せたのです。ちなみに一度目は、九月の中頃私と彼女が会社の前でフィルム貼りをしていたのを見た二、三日後二階事務所においてです。
- ./hatena-diary_20060818:⑦11月16日だと思います。私は一人松平に誘われて、中央市場前の食堂に連れて行かれたのです。その時、松平は初めて私の離婚のことに触れました。そして会社に戻る途中の中央市場内高瀬商店の横の公衆トイレの前あたりで、松平はベンツを運転しながら二度目の悪魔の嗤いを見せたのです。ちなみに一度目は、九月の中頃私と彼女が会社の前でフィルム貼りをしていたのを見た二、三日後二階事務所においてです。

 Twitterでは本日以外に「松平.*食堂」の検索結果がなく、はてなブログには2箇所ありましたが、内容は同じようです。とても印象的だったので、なんどか記述しているものと思っていました。

十一月下旬当時の状況は次の通り

①その日、午後二時半か三時頃、私は会社前でトラック(3068号)を洗車していたところ、市内配達の55歳くらいの名前の知らない時々市場輸送に麻雀に来ていたおじさんに声を掛けられ、二階に来るよう伝言を受けたのです。
 そして二階に上がったところで松平と誰か二三人、私と入れ違いのように外出して行きました。そこで私は二階内で池田と二人切りになり、池田に勧められるままにケーキと缶コーヒー(ジョージァ)をいただいたのです。そして暫く雑談をしていたところに、いつもその時間帯市場輸送に行っていていないはずの彼女が戻ってきて、それを見るや池田は「このケーキ、広野さんが文ちゃんのために買ってきてくれてんよ」(池田)、のように彼女に申し向けたのです。
言葉
「おれ、買ってきたんじゃないよ」(私)

②社内で、松平主催のジャスコ若宮店内芝寿司から買ってきた「鳥弁当」と「シャケ弁当」支給の上のミーティングがあったのも、この頃だったと思います。その時安田が来なかったため、私は東度と浜上さんから冷たい非難を受けたのです。そして当日の夕方に、安田のトラック(2313号)に同乗して市場輸送に給油に行ったことを覚えております。なぜなら、その時、車内に昼支給された鳥弁当が置いてあったことを私ははっきりと覚えているのです。
 また、この日は土曜日だったように思え、そうすると9日かもしれません。また、この頃より安田の「線抜き」が始まり、松平や浜上さんから安田はスピードを出しすぎるそうであるから注意するよう真剣な面持ちで言われるようになったのです。(三度くらい暴走だとか言われ、大丈夫なのか、と自分のことのように言われ真綿で責められた)
```
(2021年10月07日補足:)
 この「市場輸送に給油に行ったことを覚えております。なぜなら、その時、車内に昼支給された鳥弁当が置いてあった」は、私が預かっていたものを被告発人安田敏に渡したという記憶で、それも12月の中頃のことと思い、そのように記述してきたと思います。

- ./kk_hirono2021-10-07_150004.csv:2019-08-29 18:53:53 "平成3年12月の中頃にも、金沢市場輸送の給油所で、被告発人安田敏の乗務していた三菱ふそうの大型ウィング車に同乗していた記憶が残っています。ちょうどジャスコ若宮店の笹寿司の弁当を彼に手渡していました。当日あったミーティングで出された弁当でした。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/1167012266513842176

 なぜ、金沢市場輸送に給油に行かなくなったのか思い出せないのですが、12月には津幡町の太陽鉱油に給油に行くようになっていたと思います。往復だと馬鹿にならない時間が掛かったのですが、給油所で入浴したり、仮眠をすることもあったかと思います。

③安田の工事現場突入ですが、これは十一月の上旬だったかもしれません。そのポイントとなるのは、ただ一つ、東度の娘を当日の事件直前に見たことです。それは東度が、多田を連れて古河に来たちょうど一週間ほど前に、私はその娘を見たように思うのです。ゆえに、多田が東度の自宅で食事に呼ばれたと聞いたとき、私はすぐに娘のことを頭に浮かべることができたように思うのです。(私はその食事の翌日に、古河で多田に聞かされた)

④入江派出所にて駐車違反に問われた当日です。私はその日を11月23日の祝日ではなかったかと最近になって記述したのですが、その可能性は高いのですが、ただし、当日に水戸に向けて走った(運行に出発した意)というのは間違いのようです。それはまず、よく当時の日付を見ると、24日が日曜日であって23日とは連休になっているからです。私は25日にあがっているのでありますから、当初私は、23日に出発して25日に帰着したものと考えたのでありますが、24日が休日になると行き荷は卸せず、さらに23日の祝日に日本たばこ産業が営業していたとはまず考えられないことであります。しかしながら、この入江派出所の当日がもっとも25日に近い出来事であり、そしてこの時の彼女の態度がより一層私に再度彼女に電話を掛けさせることを決意とさせたことは確実であります。

(2021年10月07日補足:)
 平成3年中に水戸市に運行で行ったという記憶はないのですが、日本たばこ産業とあるのは、津幡町の山の上の工場で、静岡県に行ったことははっきり憶えている運行があります。2回か3回は、その工場に荷物の積み込みに行っています。
 入江派出所のことはよく憶えています。翌年1月の追突事故のこともありました。2年ほど前になるのか、その入江派出所が金沢中警察署ではなく金沢西警察署の管轄だと知って意外に思ったことがありました。これはまとめ記事が作成できそうです。

- 2021年10月07日15時27分の登録: twitter_log_search_”入江派出所”_(該当件数:1/データベース登録数:490,123) _2021-10-07_152711の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch1490123-2021-10-07152711.html

- 2021年10月07日15時45分の登録: twitter_log_search_”入江”_(該当件数:120/データベース登録数:490,276) _2021-10-07_154541の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch120490276-2021-10.html

(97/120/490276) ツイート:kk_hirono ID:348798 "2020-06-02 11:08:08"

> 前から気になっていた市場急配センターの警察署の管轄を調べたのですが,駅西本町5丁目は確かに金沢西警察署の管轄でした。とても意外に思ったのが入江交番が金沢西警察署の管轄だったことです。私が平成4年当時住んでいた東力2丁目も入江交番になっています。

 入江派出所の検索結果が1件で納得がいかず、入江でやり直したところ、「入江交番」としていたことに気が付きました。

 そういえば、金沢西警察署の署長のホームページでの挨拶文であったのか、金沢西警察署の建物が新しく大きくなる前は、現在より管轄地域が狭かったという話がありました。実際、平成3年当時、入江交番は金沢中警察署の管轄だったという可能性もありそうです。

⑤十一月二十五日
 私はこの日、初めてある種の自信を持って気後れなく彼女の自宅に電話を掛けました。午後七時四十五分頃だったように思います。この時も彼女は、それまでと全く同じように「今日どこも走らんかったん?」と始めに声を掛けてくれました。会話は午後十時二十分か三十分頃まで続きました。彼女の家族の方が電話を使いたいという申し出により会話を終えたのです。
 私が「好きな人どうなったん」と訊ねると、彼女は、「ダメになったぁ...みたい...私、悪いげん。冷たかったかもしれん..よお言われるぞいね。冷たい感じするって....これからは直そうって思っとるげん」などと言っておりました。
この時の会話は初めて終始穏やかでありました。福井刑務所における再審請求時の追加記載(聞く私の心境として11/9)
 私が「このまま明日の朝まで話しておりたいな」と冗談ぽく言うと彼女は笑っておりました。
 そして私は意を決して、彼女に「本当はすごく好きで諦め切れんげんけど、迷惑じゃないけ?」と訊くと、彼女は「大丈夫やぁ」と明るく答えてくれ、そして私が初めて「また電話してもいいけ」と訊くと、彼女は「いいよ」と答えてくれたのです。
(2021年10月07日補足:)
 この「証拠番号5」という書面は、平成5年11月28日付の手書きの書面の書き起こしになると思います。平成5年9月7日に判決のあった控訴審の上申書の続きで、平成4年1月に入ってからを前回の上申書の引き継ぎとして、重点的に記述したというものでした。
 それにしても11月25日のことがここまで簡単に記述されているのは残念ですが、19時45分頃から22時20分か30分まで電話が続いたとあります。2時間半には及びそうですが、その割に記憶にあるのは、これまで繰り返してきた事実に限られそうです。

- 2021年10月07日16時05分の登録: twitter_log_search_”(11月25日|11月25日)”_(該当件数:298/データベース登録数:490,276) _2021-10-07_160524の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch1125298490276-2021-10.html

 この平成3年11月25日の夜の電話でも、私は被害者安藤文さんに交際の返事を求めてはおらず、それまでのように「ごめんなさい」とも言われていないのですが、好きに思われて負担に思わないことと、また自宅に電話をすることの了承を得たという大きな前進はあったのです。

⑥十一月二六日
その日私は、午後から大阪行きの馬鈴薯を石川丸果 倉庫にて積み込みました。会社に戻ってから、私と多田は浜上さんのおごりで使いを兼ねて高瀬商店(中央市場内、通称ババァの店)に行き、そこでカップラーメンなどを買ってきたのです。そして私は二階に上がって台所にてお湯を沸かそうとしました。ところが使い方がよく分からなかったので、私は誰にともなく声を掛けたのです。すると、すぐに彼女が駆けつけてくれたのですが、ちょうどガスが付いたのですぐにそれを断ってしまったのです。
 そのあと、夕方になって私たちは、浜上さん、多田、西口などと出発の待ち合わせを一階控え室においてしておりました。そのところ、彼女はなぜか退社時間が過ぎても二階で一人電話を掛けたりしておりました。
そして六時半頃になって、白いファミリァかパルサーまたはミラージュのような車が会社の面前に来て、彼女は自分の軽四を会社前に停めたままその迎えに来た白い車に乗ってどこかに行ってしまったのです。私は、それが彼女の以前からの親しい女友達であると西口の言葉から知ることができたのです。
 そのあと私たちは、南条SAで集まって食事をして、私は大阪で馬鈴薯を卸して、二度目にかつらぎ農協に入ったのです。
```
(2021年10月07日補足:)
 かつらぎ農協は和歌山県ですが、最初に行ったのが11月18日頃で、11月25日間に3回ぐらい行っていたような記憶でいました。これが2度目とありますが、正確には11月27日の積み荷になります。

 かつらぎ農協の仕事は、始めて最初の方に一度だけ、空車で荷積みに行ったことがあったかもしれません。他は、馬鈴薯を金沢で積んで、大阪本場市場か大阪北部市場での夜中の荷降ろしで和歌山に向かいました。

⑦十一月二十九日
 その日私は、かつらぎ農協よりミカンを積んで小松に向かう途中、名神高速道伊吹SAより午後七時四十分頃か半頃、彼女の自宅に電話を掛けました。五分間ほどの短い会話でした。
言葉
「私、今から出掛けんなんし」(彼女)

(2021年10月07日補足:)
 「名神高速道伊吹SA」とありますが、伊吹パーキングエリアの間違いだと思います。サービスエリアは関ケ原インターと岐阜羽島インターの間に養老サービスエリアがありました。このときは一度だけ、西名阪自動車道で三重県桑名市から関ケ原インターに乗っています。

①十一月三十日
 この日、私が出社すると、なぜか彼女と池田の車が裏駐車場の一番奥の方に駐車してあり、それに中村りょう太(ベージュ色のソアラ旧型)、長山(赤色のRX−7)、田川(赤色の新型シルビア)の車も、それまで中央市場裏側の側道に駐車していたものが一緒に裏駐車場に停められておりました。

 流線型のボディで当時珍しく思えた新型シルビアのことは記憶にありましたが、色が赤色とは記憶になく水色のような色として記憶に残っていました。ソアラ旧型のことは記憶になかったですが、モデルチェンジした新型車が出ていたことになりそうです。

 11月30日は土曜日でしたが、市場急配センターの運転手の乗用車が裏駐車場に一斉に集まり、道路工事で移動させられたという話を聞いていたように思います。一番奥のはなはしに、被害者安藤文さんの車と被告発人池田宏美の車が並んでいました。

 実際に金沢中央卸売市場の裏の通りに道路工事をやっていたのか記憶ははっきりせず、金沢中央卸売市場の敷地内にも自分の担当するトラックと入れ替えで乗用車を駐車する運転手がいたようにも思います。そのときだけは不思議なほど沢山の数の車が裏駐車場に集まっていました。

 11月30日というのは11月の最終日で、翌日の12月1日は日曜日です。被害者安藤文さんが日曜日に出勤することは一度もなかったはずです。11月30日はたまたまのことと思っていたのですが、12月に入ってから1月いっぱい、被害者安藤文さんの裏駐車場の駐車は続きました。

②彼女の市川タイヤお迎え(十一月中頃)

(2021年10月07日補足:)
 「彼女の市川タイヤお迎え(十一月中頃)」という小見出しだけで終わっていますが、会社に電話をして迎えを頼むと、被害者安藤文さんが自分の軽四で迎えに来てくれました。助手席に座ったのですが、足元が一面泥だらけとなっていました。

 泥だらけになっている理由は尋ねず、会話のないまま会社に戻ったように思います。被害者安藤文さんの家のある住所は知っていましたが、近くに田んぼのある場所ではないと思っていました。それに11月というのは田んぼの農作業の季節ではなさそうです。

 田んぼの泥というのも実際にそれで汚れたのを見た憶えがあまりないのですが、薄い茶色で赤土に近い色であったかもしれません。宇出津の場合は粘土質の泥を子供の頃に見かけることが多かったのですが、金沢では山の方に行くことがありませんでしたので、わかりません。

 泥で汚れた大きなものを助手席の足元に置いて運んだとしか考えようのない汚れ方でした。今となっては謎のままですが、土木工事の仕事でも見たことのない泥の汚れ方で、とても不思議に思えますし、迎えに来てくれたときの彼女の様子もミステリアスなものがありました。

- ./kk_hirono2021-10-07_170003.csv:2021-08-14 15:45:45 "この市川タイヤには、被害者安藤文さんが自分の軽四で私を迎えてきてくれたことがあり、助手席に乗せてもらいました。先日、平成5年11月28日付の手書きの書面で少し見ていたのですが、助手席の足元が泥だらけだった話は、記載が見当たりませんでした。 "https://twitter.com/kk_hirono/status/1426434834344206341

12月中における主な事柄は次の通り

①一階控え室において早朝より、東度、浜上さんなどと雑談をしていたところ、午前九時頃浜上さんより現金を預かって頼まれてコーヒーパンなどを買いに出掛けようとしたところ、会社前の洗車機のあたりで、出社してきた彼女とばったり顔を合わせた(たしか二千円ほど預かった)。その時、彼女はうつむいて沈んだ面持ちで、まるで逃げるように会社内に入っていった。そのあと一時間ほど経った頃、二階から呼び出しコールがかかり、私が出たところ、彼女はまるで泣いたような声でなにか訴えかけるように「梅野さんか、朝野さんいらっしゃいますか」と言ったのです。
そしてその当日の午後だったと思います。午後三時半か四時頃、私は、他の運転手の馬鈴薯の積み込み作業を手伝って石川丸果 倉庫より会社に戻り、日野自動車に修理に出した3068号のことで先方より連絡があったはずなのでその伝言を聞こうと二階に上がったところ、池田がまずその伝言を私に申し向けたのでありますが、その時、彼女がそれを遮るようにしてその伝言を声を大にして、これも泣きそうな顔で訴えるように私に申し向けたのです。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆竹沢会長と夫人が応接席に座っておりました。また、彼女は松平の伝言も伝えたように思います。11/8

②これは初めての記述です。その日午後四時頃、私が二階に入ったところで次のような会話が聞かれました。「あの焼きそば、あの子(文さんのこと)お湯入れて作っておいてくれたよ.....やさしいやろ。こんな子お嫁さんにもらわんなん....」。察するところこれは、二階どころにおいて、市内配達の社員であった阪本(または坂本、当時二十一歳で、額あたりに家があるらしい。8月頃「北食」より移転(成瀬と一緒)してきた者)が、カップ焼きそばを食べようとお湯を沸かしていたところ、彼女(文さん)が、それをお湯を入れてソースなどを入れ食べられる状態にしたようでした。そしてそのことを池田が明るい調子で、私がケーキを彼女のために買ってきたと言ったときと同じような感じで阪本に申し向けたのです。その時私は、彼女の彼氏とは阪本ではないかと、いささかの疑いを持ったのです。それと池田の言葉は、社交辞令のようなものでそれは私においても同質のものであったと思ったのです。そしてそれは、安田敏の意見を肯定するものでもありました。いずれにせよ、今思うに、池田が彼女に私の真意を見せてやるとか称して、私に揺さぶりを掛けたものと思われます(時期ははっきりしない)。

③これも初めての記述です。ほとんど本件とかかわりはないのですが、一応記しておきます。その日午前中、松平を訪ねて、毛皮売りが二階にて、狼やミンクなどの毛皮を並べて松平に見せておりました。その時松平が冗談で、彼女にミンクの襟巻きをつけさせたところ、それはすごく似合っておりました。私はそれを見てすっかり自信をなくし、彼女のような美人が自分のことを真剣に思っているわけがない、やはり安田の言うように、互いの立場を考慮の上憐憫の情を掛けているのにすぎないと改めて認識を覚えたことを、私は印象にしております。これは十一月の中頃だったかも(その可能性はかなり低い)しれません。またあるいは、この日、同時頃(毛皮売りの帰ったあと)、日暮一家とかとび職のような変な名称の無線クラブの大きなステッカーを後部ガラスに貼ったソアラのようなかなり高級な乗用車にかなりの改造を加えた乗用車に乗って、その車を会社よこ洗車機の前あたりに停めて、そして松平に、持ち込み運転手として面接に来ていた。若いかなりつっぱったやくざっぽい男の姿を、多田と二人で私は見たように思います。かなり寒い日で、あるいは雪がちらつくような灰色の天候の日であったと覚えております。これも第二点と同様、時期ははっきりせず漠然とした記憶であります。はっきりしていることは、その当時すでに、私はすっかり多田と仲良くなっていたと言うことと、12月二十日頃以前だったと言うことであります。(また、その男は入社しませんでした。)

④その日私は、午前十一時頃(もしくは十時頃)出社して初め一階控え室にて、前日かつらぎ農協にてもらったミカンを数人の運転手にあげ、それから残りを段ボール箱ごと二階に行って彼女に渡しました。その時、彼女は明るい笑顔で対応してくれたことを印象にしております。これは12月十日頃だったと思います。

⑤十二月十三日
その日、私は彼女が裏駐車場に車(6601号)を停めるようになったのは直接私と話がしたいからだと考え、それに応えるつもりで意を決して、タイヤ置き場となっている四トン保冷箱の前あたりに停めて会った彼女の車の横に自分の車を停め、その中で彼女が仕事を終わってくるのを待ったのです。通常彼女は午後五時頃に退社し、遅くても五時半には必ず退社するのです。ところが、六時十分ほど前になっても彼女は退社のため自分の車の所には来ませんでした。そこで私は、あまり度が過ぎるとかえって嫌がらせになると思って帰ったのです。
 また、この当時もしくは当日、すっかり私が彼女に好意を抱き接触を求めていることは社内に知られた様子で、特に朝野が、私の顔を見てニタニタとなにか言いたそうにしておりました。
すなわち、私がすっかり社内に彼女との関係を悟られたと感じたのは(完全の意味でもある)十二月の十日頃だったと思います。
 また、この時梅野が私の車の横を歩いて会社の方に入っていきました。私の車は、エンジンを掛けっぱなしにしていたこともあり、多分絶対に梅野は私が彼女を待っていることに気づき、そしてそのことを池田や彼女に報告したものと思われます。 また、梅野が、私に、二階で、彼女が二階で仕事をしているときに、「あの元気のいいが、最近連れてこんな、どうしとる。今度また連れてこいや..」などと言ったのは、これも時期がはっきりしないのですが、十月の終わり頃か十一月の初め頃でなかったかと思います。当時私は、梅野が私と彼女の仲を知り、それに関与しているとは全く夢想にしておりませんでした。
 また、梅野が、二階にて彼女に家族のことなどを訊ね、それに彼女が私は嫁に出るつもりだとか、兄貴も家を継ぐつもりはないとか、爺さん婆さんが家にいてキンさんギンさんみたいだとか、明るく応えていたのはこの頃だったように思います。(初記述)
ちなみに私は当時、金山ギンさんが何者とは全く知らず、鶴は千年亀は万年のようなことわざに似た言葉であるとばかり解釈していたことを覚えております。
また、これは、九月の終わり頃だったかに梅野が彼女に、「アズさん、今晩片町に待ち合わせいいやろ」などと冗談ぽく声を掛けたところ、彼女もそれに合わせて承知した旨返答していたことがあったのです。(初記述かも)
右の事柄はいずれも似たような感じでした。今思うに、これらはすべて前もって彼女との間に打ち合わせがあったもので、私の耳に入れ、又、反応を見ることをあらかじめ意図していたものと思われ、それは当時においても、私の薄々感じるところであったのですが、私はそれを梅野の善意と、彼女のことを心配する気持ちとばかり解釈することにより、よけいに認識の錯誤を重ねたものであります。また、その梅野の真意は、いまだにもって私には了解不能であります。すなわち、この梅野の心理及び人間性にも、本件にかかわる謎を解く、真実を解明する鍵の一つであります。また、梅野と東度のかかわりと密通も重要なる課題であります。

(2021年10月07日補足:)
 これまで「証拠番号5」を読んできたところ説明はなかったと思いますが、被告発人梅野博之は安藤健次郎さんのことを「あずさん」と読んでいました。「ず」にアクセントをつけていたとも思いますが、他に似たような呼びかけをするものはおらず、彼女の名前を呼ぶものもいなかったと思います。

 被告発人浜口卓也だけが「おじょう」と呼んでいましたが、松元組の組員だったこともあり、ヤクザの親分の娘のイメージが強いのかと考えることはありました。

 12月10日頃には、会社の多くが自分と被害者安藤文さんの関係を知り意識していたように書いてありますが、決定的に思ったのは12月21日のことで、それまでは余り意識していなかったものと、これを読むまで考えていました。被告発人東渡好信はクリスマス前のことがあります。

⑥この日も天候はかなりどんよりとしておりました。私は午後から石川丸果 倉庫において馬鈴薯を積み込み、いったん会社に戻ってから和田のプレリュードを借りて、送り状を取りに行きました。その時、彼女があてもなくさまようように駐車場を歩いていたことを覚えおります。また、この時安田敏の同乗しておりました。また、この時の馬鈴薯の行き先は、東京太田市場ではなかったかと思います。時期ははっきりしないのでありますが、12月5日から15日までの間のように思います。

⑦その日私は出社後間もなく正午前に、七尾に荷積みに向かうのに二階から降りたところもしくは二階にて声を掛けられて、一階控え室にて会長夫妻にジヤンバーとズボン(茶色)をもらったのです。そして間もなく、洗車機横に停めてあった3068号に乗り込むところで、この時もあてもなくさまようような彼女の姿を裏駐車場タイヤおき保冷箱前あたりにて見たものであります。

⑧その日午前二時か三時頃、私は裏駐車場の多田四トンウィング車の中で初めて彼女との関係を多田に告白し、彼女のことについて訊ねました。多田は初め「事務員喰ってしもたん」などと訊き、そして彼女については、見ての通りや、あんまりしゃべらん子やなどと言って多くを語りませんでしたが、これはその時、彼がひどく眠そうであったことも大いに関係していたように思われます。その当日の朝多田はマルエーの青果物の配達で小松方面に行くともうしており、私は、付き合うから出発するときはトラックの中(3068号)に寝ているから起こしてくれるように言ったのですが、多田は起こさず一人で配達に行ったようでした。これは12月10日頃かもしくは17日未明のことと思われます。
 また、もしかすると福井に行ったあと仕事を終えてしげちゃんに行き、そこで浜上さんと河野さんと偶然に合った直後だったかもしれません。(古河便を終えて)

(2021年10月07日補足:)
 金石街道沿いのお好み焼きしげちゃん、は、金沢市場輸送の輪島の運転手に誘われて行くようになったのですが、平成2年になってからだと思います。夜遅くまでやっている店で、午前2時はまだ営業をしていたように思います。

⑨これは初めての記述です。その日私はあがりであったところ、夕方六時頃になって浜口さんと浜上さんが、浜口さんのトラック(いすゞの1414か1413のどちらか)でかつらぎの近く(かつらぎ農協ではなくその近くの農協で、私は行ったことはない。他の人達は時々行っていたようである。)よりミカンを18トンほど積んで、七尾に卸しに行く途中に会社に立ち寄り、私は浜口さんに誘われて七尾に同行したのです。金沢に戻ってから、たしか松村町のエバラの近くの北海ラーメンで、ラーメンをおごってもらったことを覚えております。七尾には浜口さんと浜上さんと三人で行ったのですが、その時彼は、私と文さんとの関係を話題にすることも触れることも一切全くなかったと覚えております。時期ははっきり覚えていないのですが、これも十二月の中頃だったように思います。もしかすると多田に未明に告白した当日だったかもしれません。(この当時は忙しく、あがりの日は他の月よりも少なかったように思います。)

(2021年10月07日補足:)
 なぜ「これも十二月の中頃だったように思います。」と記述してあるのか不思議に思いました。これは11月中頃で、最初にかつらぎ農協のみかんの仕事が始まった頃という記憶でした。しかし、かつらぎ農協の近くの別の出荷場というのは全く記憶にありません。

 そういえば、河野秀美さんと二人で、宇出津のAコープ能都店と七尾市の市場にみかんを運んだこともまだ記述がないようです。これも11月の中頃で、みかんの出始めの頃だったように思います。ただ、けっこう寒かったとも記憶にあるので、12月中の可能性もありそうです。

 七尾市で仕事が終わった後に、金石街道沿いの北海ラーメンに食事に入ったと思うのですが、七尾市からの帰りは当時の河北郡高松町辺りの国道157号線を通行し、雨が降っていたとも記憶にあるのですが、雪が降ることはまだ気にしない時期と寒さだったとも記憶にあります。

⑩その日は12月19日です。
 その日私は未明に前日山三青果から積んできた荷物を降ろし、あがりのつもりで午前十一時頃に出社して二階に上がったのです。そのところ私の予期に反して彼女の隣の隣の席に座った東度は私に七尾から関東に走るように指示を出しました。その東度の言葉を聞いた瞬間文さんが、がつくりと首をうなだれるのがはっきりと見て取れました。それは12月21日の私が24日東京に行くことに決まっていると言った時、そしてそのあと藤江陸橋下にて私がプレゼントを車外に投げた時と全く同じような反応であり、それは裏駐車場を彷徨彼女の姿とともに当時の彼女の苦悩をあらわす特徴であります。

(2021年10月07日補足:)
 これまで被告発人東渡好信が出した運行の指示で被害者安藤文さんががっくりと首をうなだれたのは、12月19日頃に24日のクリスマスの運行の指示を出したからと思っていたのですが、これを読むと19日当日の運行指示となっています。

 12月21日にトラックのなかで、24日の運行が決まっていることを被害者安藤文さんに話した時、被害者安藤文さんががっくり首をうなだれたとありますが、そういえば、そういうことがあったかもしれないと思いました。

 最初に24日は運行が決まっているので、早いけど今日の21日にプレゼントを渡したいという話をしたように思い出しました。被害者安藤文さんはクリスマスのことを強く意識した様子で、思いつめているとも思えることがありました。まだ、手編みのマフラーのことは出てきません。

 また、この時東度は私の反応をあらかじめ計算に入れていたらしく、なにやらもっともらしい説得のようなことを私に申し向けており、かつ、なにやら憐憫の情を私に言外に込めて印象づけておりました。それがより顕著となって私の心に訴えかけ悪いように印象づけたのが12月24日の、私の高崎インターの近くの関越道のPAからの午後二時半頃の電話の時です。今思うに、この時点で私と彼女はともに、東度の暗示に強く支配されていたのであります。
 また、その直後に彼女はしたに降りて行き、5〜6分ほどで元の自分の席に戻り、そのあと、私は下に降りたところで彼女が5〜6分外に出た間に裏駐車場に停めてあった自分の車(6601号)を以前停めていた会社面前に戻してきたことに気付いたのです。これで私は大きく心を救われたのでありますが、今思うに、私と彼女の心のダメージを与えることこそが東度の狙いであったように思います。しかし、当時の私は、彼女と同じ年頃の娘を持つ東度がそのような企てをしているなど、全く想像さえしたことはありませんでした。またそれは、彼女においてはより以上、東度をやさしいおもしろいおじさんだと信じ込んでいたものと思われます。

⑪十二月二十一日
 当日私は未明から朝方に前日古河青果市場で積んだ青果物を卸し、朝方自宅に戻り、仮眠を取り、午前九時半か十時頃に起きてそのまま金沢駅前の三越デパートに行き、「ティファニー」という宝石貴金属店で消費税込みで六万四千円ほどのネックレスを彼女に対するプレゼントとして購入しました。
それからそのまま会社に向かい、会社に着いたのは午前十一時一五分か二十分頃だったと思います。ちょうど裏駐車場に安田がいたので、私はプレゼントを買ってきた事情を話し、安田に彼女を呼んできてくれるように頼み、そして会社内には全く入らずに裏駐車場の真ん中の奥の方に駐車したトラックの中で(3068号)、安田の呼びかけにより彼女が来るのを待ったのです。間もなく彼女はうれしそうな笑顔で恥ずかしそうに「なんやぁ」と、私の運転席の下より声を掛けてくれました。私が助手席に乗るように頼むと、彼女は「これどうやって乗るがぁ」と恥ずかしそうに言いながら素直に応じてくれました。
〈このあとの会話については上申書などで何度も記述しているので省略しますが、ポイントとなる言葉を一応記しておきます。〉
★「もうじきクリスマスやね。オレ、クリスマスの日」東京行くの決まっとるやけど、これ先にもらって欲しいもんあるんや。一応クリスマスプレゼントと言うことで」=(私)★「なんやぁ」「私、こんな高価なもんもらえん......だって私広野さんになんもしてあげれんもん」「それに、私、好きな人おるし....」=(彼女)
★「なんで家電話掛けても出てくれんが?」=(私)
「寝とったんじゃないか、私最近早く寝るし」=(彼女)
「おまえの家の人、出掛けとるって言いとったぞ」=(私)
「ほんならその時出とったんじゃないか」=(彼女)
★「好きな人ってどうなったんや。その男と付き合っとるんか?」=(私)
「わからん」=(彼女)
「わからんってどうや。これだけ言っておくけどオレ付き合っとる男おりながら他の男と付き合うような女なら初めからいらんぞいね」=(私)  「....(無言)」=(彼女)★「私の気持ち変らんし」=(彼女)
「ほんなはっきりもの言えるんやったらもっと早よ言えや」=(私)
★「そんなんやったらこんなもん(プレゼント)もろても迷惑なだけやろな」=(私)車外に投げた
「初めに言ってきたん、あんたの方やしね」=(彼女)
 そのあと私は、七尾に行って能登木材よりたしか東京都練馬区行きの製材を積んで夕方五時十分ほど前に会社に戻りました。そして二階に上がったところ、浜口さん、浜上さん、河野さんなどがいて(東度はいなかったかもしれない)、彼女は私の姿を見ると(目は合っていない)、先ほどトラックで別れたときと同じように張りつめた緊迫した沈痛な面持ちで無言のまま足早に帰って行きました。その時二階にいた人々は知らぬ風をしておりましたが内心ニタニタしているのが特に河野さんにおいて感じられました。
 これは一月二十二日の夕方七時頃私と彼女が東インターから西インターをまわって戻ってきたあと一階控え室に入った時、と実に似た雰囲気でした。
 また、その七尾に向かう直前、彼女がトラックを降りてから3〜5分ほど遅れて私が二階に入ったところ、彼女の姿は見えず(台所にいたように思われるがはっきりしない)、池田と松平が満面の笑顔で私になにか優しく声を掛けそして松平はその時緑色の帽子を私にくれました。この時の松平と池田の態度は一月二十二日の午前十時半頃私がハサミを借りたあと二階の出入り口のドアを蹴って穴を開けたとき及びその直後の態度と実によく似ていたと印象にあります。当時私は、それを松平らが私と彼女に会社を辞められたくない一心によるなだめであるとばかり思っていたのです。それは彼女においても同様であり、その影響力はより大きなものであったと思います。

(2021年10月07日補足:)
 被告発人松平日出男から帽子をもらったことはすっかり忘れていましたが、それもこの12月21日というのは意外でした。ずいぶん早くに忘れていたとも思います。平成15年には記憶になかったかもしれません。

- ./hatena-diary_20051215:第3項 午後三時頃、私は二階で松平から給料の一部と20万円の入ったボーナスをもらったのです。そして、28日の土曜日だったと思うのですが安田と一緒に行き服を買いズボンの寸法合わせを頼んだ紳士服モリワンにそのズボンを取りに行ったように思います(安田と一緒に行った時、強風で車のドアが曲がってしまった。また、その何時間か前には裏駐車場でトラック(3068号)より降りた瞬間に21日松平にもらった帽子を強風で飛ばしなくしてしまった。)

 市川タイヤの向かいあたりで、靴流通センターだと思っていたのが、「紳士服モリワン」だったようです。その店の前で、運転席のドアを開けた瞬間に強風で飛ばされ反対側に曲がってボディがへこんだことはよく憶えています。

 帽子が飛ばされたのもそのときかと思ったのですが、裏駐車場と飛ばされ見つからなかったように書いてあります。28日の夕方のまだ明るい時間は、被告発人安田敏を探しにパチンコオークラに行き、店の外で話をしたことも記憶にあります。

 そのあと私は自宅に戻り、まもなく投棄現場に行きそこでプレゼントを拾ってそのまま南新保の浜口さん宅アパートを訪ね、そして浜口さんが入浴中に財布を取りに(忘れてきた)自宅に戻り、午後八時半頃浜口宅を浜口夫人の運転によるダイハツシャレードに乗せてもらって出発。会社に浜口さんと寄ったところその時一階に梅野と中山さんなど数人がめずらしく残っておりました。私と浜口さんは中央通りと片町の境あたりに降ろしてもらい。夫人はそのまま自宅に戻られたようです。
 そのあと私と浜口さんは、四軒ほど飲み屋をまわりました。途中浜口さんが前もって連絡していた大網周一さんと合流したり、AKM(旧姓○田、通称チ○ー○)と○○○○さんの働く店などに入り、最後に入った店でその閉店とともに二人の二十代の女性と店を出たのですが、私が男女二組に分かれ別行動することを拒んだため二人の女は腹を立てていなくなり、それで浜口さんも腹を立てて、私は午前三時頃一人でタクシーに乗って片町スクランブルあたりより会社に戻り、トラックの中で一時間ほど経ってから(会社に着いて)眠りました。

(2021年10月07日補足:)
 被告発人浜口卓也の自宅アパートから、被告発人浜口卓也が被告発人大網健二の自宅に電話を掛け話をしていたことは記述がないようです。用事らしい用事での電話ではなさそうでしたが、頻繁に電話のやりとりをしている関係には思えました。

⑫12月22日の私の行動
 未明に片町で浜口さんと別れ会社に戻ってトラックの中で寝た私は当日の朝九時半頃に目を覚まし、それから一階控え室で電話を掛けてから十時半頃に大場町913の4の大網健二君宅に訪れました。そして暫くしてから、無理を言って一緒に花を彼女に贈るため花屋さんを探しに武蔵が辻の名鉄丸越に行きましたが、目的の店は見つからず、それから市場輸送の近くのパチンコオークラの横の花屋に行き、そこで赤いバラの花一本800円を10本、24日の夜七時に彼女の泉ヶ丘の自宅に届けてくれるよう手続きして代金を支払いお願いして、それから、中央病院の近くの8号線バイパス沿いの「アンデルセン」というレストランで大網君と二人食事をして、それから、大網君の申し出によりゴルフの練習場に行くことになり、初め宇ノ気の山間部のゴルフ場に行ったのですが都合が悪く、それから、津幡町と森本町の境あたりの8号線に近いゴルフ練習場に入って打ちっぱなしを二時間ぐらいして、それから、大網君の自宅に戻ってその近くに停めてあった自分の車に乗って私は午後五時近くに自宅(東力二丁目28の2)に戻って、それから自宅の斜め前前方50メートルほど先にある中森という床屋に行ってそこで、久しぶりに短く散髪してもらったのです。(髪を短く切ってもらった)

(2021年10月07日補足:)
 アンデルセンという大きな喫茶店のような店の名前は記憶になく、宇ノ気の山間部のゴルフ場に行ったことも記憶にないですが、才田町の近くの河北潟の河川敷のような場所に行ったことはよく憶えています。よくそこでゴルフの打ちっぱなしの練習をしていると話していました。

- 才田大橋 - Google マップhttps://t.co/zA9QzEV2Nc

 才田大橋を渡り、突き当りの道路を左折して、すぎ左手の河川敷でした。湖南町とありますが、現在も周辺は田んぼばかりのようです。このあたりで金沢市東山の主婦が夫を殺害し死体を遺棄するという事件がありました。

- https://t.co/hEEXK0Lxkh : ゴルフボール 激安https://t.co/5ODGdnQS5P

 河川敷から河北潟に向かってゴルフボールを打てば、回収は不可能に思えました。3ヶ月ほど前図書館で別の調べものをしていた時、東山の主婦が夫を殺害した事件の記事が北國新聞縮小版に出てきたのですが、平成3年で隣接した時期であったように思いました。

 平成3年で北都運輸が倒産した記事を探していたときと思います。被告発人安田敏のバーテンの仕事先が薬物の密売で摘発された記事も探したのですが、それと特定できるような薬物事件の記事は見当たりませんでした。年齢等が違うように思えたからです。

 「津幡町と森本町の境あたりの8号線に近いゴルフ練習場」に着いた頃には、夕方に近い時間になっていたとも記憶にあります。ゴルフ練習場に入ったのもたぶん初めてで、どれぐらいの時間いたのかわからないですが、東力のアパートに戻ったのが午後5時近くとあります。

 また、12月21日ですが、年末で被害者安藤文さんや被告発人池田宏美の事務の仕事はとても忙しそうでした。金沢市場輸送での金沢中央卸売市場の仕事をしていましたが、12月が特別忙しく仕事の量が多いことはよくわかっていました。

 11時20分頃に被告発人安田敏が裏駐車場にいたというのも偶然とは思えないことですが、被告発人安田敏に被害者安藤文さんを呼び出してもらいトラックに乗せて会社を出たのが、11時20分から30分の間になりそうです。

 当時は50メートル道路と呼んでいましたが、金沢駅西口から一直線に石川県庁に向かう広い道路で、今Googleマップでみると「けやき通り」となっています。西念の交差点で国道8号線バイパスを左折、小松市方面に向かいました。

 現在は道路が変わっていると思いますが、犀川沿いの大豆田大橋、あるいはその先の御影大橋の近くの大きな交差点を左折しました。大豆田大橋だと中橋の交差点、御影大橋だと金沢駅の近くの六枚の交差点で金石街道を左折することになります。

 大豆田大橋だとその手前、パチンコオメガ長田店の手前から左折していたかもしれません。これは東力のアパートからの通勤コースでもありましたが、この辺りの道路はずいぶんと変わっているので当時の原形は残っていないと思います。

 大豆田大橋の手前だと思いますが、犀川沿いの広い道路にトラックを停車させ、そこで被害者安藤文さんになぜ自宅の電話に出ないのかという質問をし、寝ていたとなどというとぼけた応答がありました。

 金石街道から現在の若宮交差点を右折し市場急配センターに戻るつもりだったのですが、交差点の直前で被害者安藤文さんが、思いつめた表情で「私の気持ち変わらんし」などといい、まだ話をする必要があると判断し、そのまま直進し、藤江陸橋の下を右折しました。

 会社を出てから30分の時間はあったと思います。40分から50分ほど掛かっていたかもしれません。それだけの時間、年末の最も忙しい時期に、無断で仕事中の被害者安藤文さんを連れ出していたことになります。

自宅に床屋から戻ったのは午後七時頃だったと思います。私は食欲もなく、それからすぐに安田敏の自宅に電話を掛け今から訪ねる旨申し向け、彼の承諾を受けすぐに花里町の彼の自宅に向かい訪れたのであります。
 「やっぱりダメやったか。ダメやと思っとったわい。お前が呼んどるってあの子に言った時、すごい嫌な顔しとったわい。あの子前縫い物してくれって頼んだ時、ちょうどあの子忙しかったらしくって顔曲げて(のような意味の方言)嫌な顔で合図しておったわい。その時と同じような感じやったし、あぁ、こりゃダメやなってすぐ思ったわい。そしてあの子なかなかお前や呼んどるってゆうたら返事せんかったわい。まあせっかくやし、行くだけ入ってやればってゆうてやってんけどな」などと感情たっぷりにうれしそうに安田は申しておりました。私は安田に前日の夕方に拾ってきたプレゼントを差し出し、24日に出社したときに彼女に渡してくれるように頼みました。最初、安田は渋ると思ったので私はもはや他には方法がないと諦め、「事務所で誰がおってもかまわんし池田さんに渡して彼女に渡してくれるよう頼んでくれ」などと私は池田の顔を立て且つもっとも簡単な手段を安田に頼んだのですが、あとになるとそれはやはり軽率であってまたしても彼女を傷つけることになりかねないと思い直し、安田のご機嫌をとってそのあとで前言撤回の上、彼女を人目の付かぬように呼んだ上で、「文ちゃんのこといい加減な女やと思っとらんし、頼むしもらうだけもらってくれ」と頼み、それでもダメなら無理強いしないでくれと安田に頼んだのですが、安田はあまり真剣には聞かず、それでも返事だけはしっかりと何回もしていたので私は承知してくれたものとばかり思い、肩の荷がようやく下りた気持ちになっていたのです。
 また、その会話の途中突如安田に松平から電話が掛かり、津幡のYTが喧嘩をして怪我をしたので代わりに豊橋に行ってくれと頼まれたらしく、安田は仮眠をして夜中二時頃に出発すると云ったので私はそれからすぐにおいとまして自宅に帰ったのです。
 また、私が初めて安田の妻の顔を見たのもこの時でした。出産直前でもありました。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆私が安田に前言を撤回し頼んだのは、たしか松平から電話があった後で辞去する直前です。H6年11/10
現在の意見
私は安田から 誰からの電話であったか尋ねていないはずです。その電話の時は松平か東度のどらかかで半々くらいに考えていましたが、初めのうちは会社からの電話とは考えにくかったのです。結構長い会話で通常ならば要件を先に話すはずなのに具体性が感じられなかったのです。安田の態度も会社での態度とは違っていて親しい者と話しているような雰囲気だったのです。終始淡々としていて突然の電話のはずなのにそのようなそぶりは全くありませんでした。私は何となく不可解な気がして深く会話の内容に立ち入る気がしませんでした。それで安田に誰からなのか聞かなかったように思うのですが、あるいは安田の口から松平という言葉を聞いていたのかもしれません。しかし、私の印象は東度という方が可能性として強かったのです。ここでなぜ私が松平とはっきり記述しているのか分かりませんがこれを書いたときは深く考えずにいたのかもしれません。

(2021年10月07日補足:)
 「安田は仮眠をして夜中二時頃に出発すると云ったので」という部分も早くに記憶から抜け落ちていたようですが、被告発人安田敏に電話があったのは22時半から23時の間ぐらい、あるいは23時半の間だったかもしれません。

 名古屋方面のミールの運行でも、夜中に起きて朝方に到着するつもりで出発する運転手はいると聞いていましたが、それにしてもずいぶんな余裕をそのときの被告発人安田敏の態度には感じていました。12月下旬の深夜から朝方だと路面凍結の気遣いも出てきます。

 ここには記述がないようですが、代走を頼まれたという被告発人安田敏の仕事は小林運送の仕事で、豊橋行きと聞いていたように思います。慌てる様子もなかったので、それの仕事が事実であれば、空車で翌朝に豊橋の出荷場から野菜を積んで帰る仕事だったと考えられます。

 そのしばらく前に、市場急配センターで小林運送の仕事をするようになったと聞いていました。事務所も前の道路の向かい側で50メートルほどの距離だったと思います。小林運送は、昭和58年に長距離助手の仕事をしていたこともあり、仕事内容も知っていました。

 私が市場急配センターで小林運送の仕事をしたとはっきり記憶にあるのは2回で、いずれも平成4年の2月中かと思います。あるいは3月にもあったかもしれません。一度は、渥美半島の先端まで行き、トマトなどを積みました。

 トマトは重くて潰れやすく取り扱いに気を使う面倒な荷物でした。石川県小松市の市場で荷降ろしをした記憶がありますが、夜でも早い時間で夕方に近かったかもしれません。

 もう一度は、他の運転手がよくやっていると聞いていた仕事で、午前中に豊橋市の市場のような大きな出荷場で白菜を積み、午後には金沢中央卸売市場に荷降ろしをしていました。2月11日に被告発人安田敏の積んできた同じ仕事を手伝っています。

 昭和58年に小林運送で長距離助手の仕事をしていた頃も、3月から4月頃で夜の明けるのが早い時間ではなかったと思いますが、金沢中央卸売市場で荷降ろしが終わるのが早朝のすっかり明るくなった時間ということがありました。

 そのあと朝に時間を掛けて大型トラックの洗車などしていたのですが、やはり小川のような用水路があったと記憶にあります。田園風景に、金沢市場輸送の駐車場があり、その金沢市場輸送のトラックを目にしながらブラシで洗車をしていました。

 運賃が変わらないとも考えられるのですが、夕方の早い時間に終わった仕事が、翌朝の早朝まで続いていたことになります。昭和58年の小林運送は、花の荷物も多く、当時の花木市場は、金沢東警察署の隣の辺り、東大通り沿いにありました。

 2月11日は、金沢中央卸売市場で荷降ろしを終えた後のことがはっきり記憶にないのですが、被告発人安田敏とレストラン十字に入った頃はすっかり暗い時間になっていました。

 この2月11日のレストラン十字で、印象的に記憶にあるのはただ1つ、被告発人安田敏が河野秀美さんに被害者安藤文さんと付き合っているのか、あるいは付き合っていたのかと尋ねられたという話でした。

 河野秀美さんが被告発人安田繁克と被害者安藤文さんとの関係を聞いていなかったとは考えにくいところで、いかにもとぼけた話に思えたのですが、被告発人安田敏が被告発人安田繁克と被害者安藤文さんの過去の話をすることもなかったかもしれません。

 私が被告発人安田繁克と被害者安藤文さんとの過去の関係を話に聞いたのは、平成4年1月21日の夜、被告発人浜口卓也のアパートでのことでした。それからせきをきったように被告発人多田敏明も事実があったようなもっともらしい話をするようになりました。

 考えてみると、これまで読んできたこの証拠番号5の書面で、安田某とする被告発人安田繁克の話は少ないのですが、この平成5年11月28日付の手書きの書面は、斐川雅文弁護士から郵送された被告発人安田繁克らの供述調書を読む前の状況で、その後状況認識が一変しました。

⑬十二月二十四日
 当日私は池袋インターから首都高速に乗り東北道を通って午前九時か九時半頃に古河青果市場に入り、青果物を積み正午頃に出発しました。
 そして二時半頃、渋川インターの手前のPAより、彼女が市場輸送に行っていないことを計算の上会社に電話を掛けました。(駒寄PA、関越道渋川伊香保〜前橋間)
 初めに彼女が出て次に東度にかわったのです。この時私は風邪をこじらせて特にのどの調子が悪く不機嫌な声になっていたのは致し方ないのですが、この事も池田や東度に存分に利用されたように思います。
 この時の東度は妙にやさしく、同情に堪えないと云った深刻ぶった感じでした。これは当時何度も見られた東度の態度の特徴の一つであります。とにかく深刻ぶることにより相手方に不安を与えるのが東度の常套手段で、松平はよりソフトにその傾向を有するものであります。この時の彼女は私の言葉を待つようにして、そして本当にすまなそうでした。
 そのあと私、関越トンネルの手前にある谷川岳PAより電話を掛けました。その時は池田が出て、それとなく私の声のことを訊ねたので私は風邪のためだとはっきりと答えたのです。
 そのあと私は、午後七時頃、富山県の北陸道有磯海SAにて食事にレストランに入った事を覚えております。
 そのあと私、中央市場内高瀬商店の隣の公衆トイレの前あたりで、福井分を多田の四トンウィング車に中継しました。その時の多田はすこぶる友好的且つ上機嫌でした。
 そのあと私は、午後11時30分頃か12時30分頃仕事を終えて自宅に向かう途中、長田本町と大豆田本町の境あたりの路上で、なにか白い塊のようなものを走行中にてまたいだのです。(自分の軽四アルトワークス)

(2021年10月07日補足:)
 被告発人多田敏明は当時19歳で、まだ遊び盛りという様子でしたが、12月24日の23時過ぎの仕事で、上機嫌にしているのも普通には思えませんでした。極端に不機嫌な時が多かったのも被告発人多田敏明ですが、与えられた役柄の演出をアドリブ交じりでやっていたのだと思います。

 基本的に、山三青果の仕事の福井中継は、荷物の少ないときに中継し、多いときは被告発人多田敏明を同乗させてそのまま大型車で福井の市場に向かっていたのですが、荷物の量に関わりなく、同乗させて福井に行くのも勝手に任されていました。

 被告発人安田敏に頼んだネックレスのプレゼントのことが気になりすぎていたのか、被告発人多田敏明と一緒に福井には行く気になれず、愛想笑いを交わしながら中継の荷物の積替えをしたのでした。

 被告発人多田敏明は当時すでに、私から被害者安藤文さんとの関係の情報を聞き出すスパイ役を任されていたのだと思いますが、あてが外れて苦笑いで戸惑いながらごまかしているようにも見えました。

 4月1日の事件当日は、被害者安藤文さんのことで頭が一杯で深く考えることはなかったと思うのですが、翌日の東京への引っ越しの仕事に被告発人多田敏明を同乗させて行けと指示を受けたときは、さすがにおかしな話だと思いました。

 被告発人多田敏明が大型車の乗務や大型免許の取得を口にしたことはなく、専門で長距離トラック運転手をするようには思えませんでした。臨時で古河の山三青果には行っていたようですが、それも平成4年2月1日の一度だけでした。

 被告発人多田敏明に仕事を教えるように言われたこともなかったですが、被告発人東渡好信が若いのに給料をもらいすぎで、本人のためにはならないと真剣に話していたことはありました。手取りではなかったと思われますが、30万円の給料をもらっているとかいう話でした。

 被告発人多田敏明は平成3,4年当時19歳で、これは昭和59年の金沢市場輸送で4トン保冷車の仕事を始めたときの私の年齢と同じでしたが、仕事内容に天地の開きがあり、お金の不満より、そのときの経験が財産になっていると感じることが大きくありました。

 昭和59年は4トン保冷車の長距離が20万円の固定給で手取りが16万円ほど、運行費は別にありましたが、月の売上が80万円を超えると歩合がつくという話がありながら、小口の面倒な仕事が多く、売上になる仕事はありませんでした。

 昭和60年の中西運輸商では同じ4トン車で月の売上が178万円になったといわれましたが、それでも給料の総額で30万円はなかったと思います。中西運輸商の場合は、金沢市場輸送よりいくらか運行費が割高だったとは思います。

 金沢市場輸送で月の運行費は8万円ぐらいだったと思います。運行費という名目でしたが食事代で、税金がかからないという話もありました。金沢市場輸送ではいいときで手取りで43万円ということがありました。

 市場急配センターの長距離は固定給で50万円となっていましたが、離婚して税金が高くなっていたためか手取りで40万を超えることはなかったと思います。運行費は関東で4千円だったかもしれません。金沢市場輸送では3200円という時期があったように思います。

 金沢市場輸送では鮮魚でも下道を走らされることがあったのですが、市場急配センターは高速道路の利用も寛大でした。仕事内容は金沢市場輸送とは比較にならないほど楽だったのですが、嬉しい反面深刻に悩まされたのが被害者安藤文さんとの関係でした。

⑭12月25日の行動
その日私は、午前十一時頃に出社しました。そして事務所横の洗車機の横で軽四を停めて、自宅を出発したときから気になっていたオイルの油圧メーターの変調により、車外に出てオイルパンのオイル漏れがないかどうか車の下を覗いていたのです。右の状況と前後して私が進入してきた会社正面とは逆に裏駐車場の奥の方から彼女が自分の軽四に乗って進入してきたのですが、ちょうど駐車場が一杯だったこともあり彼女はUターンして中央市場横の道路に出て会社正面の方に走っていきました。 
 そのあと5〜10分ほどして私が二階に上がって事務所内に入ったところ、彼女は何事もなかったように机に向かって仕事をしておりました。
 私は池田の顔を立てる意味(安田に頼んだことも含まれる)と、高価な贈り物に対する彼女の心の負担を減殺することを目的として、池田に給料を預かってもらっていたことなどを名目に現金を二千円ほど池田に手渡し、彼女と一緒にケーキでも買って食べてくれ旨申し向けたのであります。その時彼女は、下から見上げるように私の顔をにらんでおりました。(私は目を合わせなかった)(しばらくの短い間のこと)その時池田はかなり遠慮して困ったような態度でありました。
 そして私は、その時来客か電話があって話し中であった松平に、オイルパンが割れたことを話し、修理を頼んで(スサキ自動車にしてもらったらしい)、それから七尾に荷積みに向かったのです。
 また、福井分を中継する時、ただに当日の彼女の様子を訊ねたように思います。多田は見ていないようなことを申しておりました。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆これは十二月二十四日の夜に間違いありません。H6.11.10

⑮十二月二十五日夜、足利給油所からの電話
当日の夜十一時半頃、私は七尾から積んだ荷物を関東地方の某所に運ぶ走行中、栃木県足利市の国道50号線沿いの太陽鉱油の給油所に給油に立ち寄ったところ、その機会を利用して給油所内の公衆電話より金沢の安田の自宅に電話を掛けたのです。夜中にならないと帰らないと思っていたのですが、予期に反してまもなく安田本人が出ました。そこで私は初めて彼女がプレゼントを受け取ってくれたことを知ったのです。
 安田の話によると、「お前のいいた通り、二階に上がって池田さんに、これ秀樹がどうしても文ちゃんにもらってくれと」などと、彼女の面前において池田にプレゼントを渡したところ、池田は「はい、文ちゃん、広野さんから」と言って彼女に渡したそうです。
そして、私が彼女の反応を安田に訊ねると「どうしたん、文ちゃん、真っ赤っかの顔して」などと池田にからかわれていたとだけ言い。そのあと安田は、自分が当日の昼に土浦市内でトラックを接触させたことなど余裕たっぷりに機嫌よく話題を変えて話し始めたのです。
また、私はその前日である24日の夜にも何度も安田の自宅に電話を掛けたのですが、ちょうど夫人が入院したところだったようでだれも出ませんでした。(私は安田本人が不在であることは承知していたけれど、安田はよく夫人に電話を入れるので伝言による結果を知っていないかと、夫人の存在を期待して電話を掛けたのです。)

(2021年10月07日補足:)
 栃木県足利市の太陽鉱油の給油所から被告発人安田敏の自宅に電話を掛けたのは、金沢に帰るときという思い込みがあったのですが、七尾市から関東の某所に向かっていたときとあります。

 この国道50号線沿いの太陽鉱油の足利市の救助は、大きな中央分離帯があって、給油所は前橋方面の車線沿いにありました。一度、反対側から給油所に入ったのですが、そのあと本線に引き返すのにとても面倒なことになり、懲りたという思いがありました。

 被告発人安田敏は茨城県土浦市でレンコンを積み込んだと話、ぶつけたのは民家の軒先で屋根瓦が落下したのをバックミラーで確認しながら当然のように走り去ってきたと、余裕たっぷりで私に話していました。ずいぶんとくつろいだ様子も伝わりました。

 「どうしたん、文ちゃん、真っ赤っかの顔して」とありますが、「どうしたん、文ちゃん、顔真っ赤っかやじい」という金沢弁で被告発人安田敏から聞いたという記憶があります。

 金沢弁で若い女性ほど語尾に「じい」をつけていましたが、被害者安藤文さんはほとんど使っていなかったように思います。語尾は「ねん」や「てん」、「げん」が多かったと思います。

 「ぞいね」もありましたが、被告発人池田宏美がよくつかう「じい」はなかったように思います。「やろ」というのもありましたが、これはきつい感じがありました。

⑯12月26日の夜
 当日私は、古河より夜中に金沢の中央市場に入り、そしてこの時は、福井分を中継せずに多田を同乗させて福井に卸しに行きました。その時福井の市場でウィングの荷台を開けたところ、中に小鳩が一羽いたのです。また、当日私は自宅に帰らずトラックの中で寝たように思います。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆(間違いありません。)H6.11.10

(2021年10月07日補足:)
 これもずっと忘れていましたが、そういえばそういうことがありました。ウィング車の荷台のなかに小鳩がいたことです。テレビでは公園に鳩がいる風景を見かけましたが、金沢というか石川県では、鳩を見ることがなかったと思います。

 山三青果の仕事で福井だけの荷降ろしというのはほとんどなかったはずで、最終の荷降ろし先になるのも福井ですが、その前に富山、高岡、金沢の市場で荷降ろしはしているはずで、そのときは鳩に気が付かなかったのか、そこで鳩が紛れ込んだことになりそうです。

 鳩とは違う別の鳥だった可能性もありそうですが、ウィング車も箱車で箱の中の荷台に鳩がいたのは、聞いたこともない椿事でした。

⑰その日の夕方彼女の退社の際、それを一階控え室にて、津幡のYTと安田敏がなにか期待を秘めて私の様子を窺っていたのです。その当日の昼頃、私は安田に、今日の夕方に彼女に声を掛けると話していたのですが、その時安田は、聞こえなかったようにして返事をしませんでした。
 そして、彼女はいつもより三十分ほど遅く五時半を過ぎて下に降りてきたのですが、私はそれまで彼女に声を掛けることを決意にしていたけれど、山下と安田の好奇の目にさらされることが気になってならず結局彼女に声を掛けなかったのです。その時彼女は、一度二階に戻りそれでも私の反応がないと見ると外で自分の軽四(6601号)のドアを音を立てて開け閉めしたりして、私が来ることを意思表示により要請していたのですが、それでも私は行動に出なかったので、彼女は車のエンジンを吹かしつけて乱暴な運転で帰って行きました。するとそれと同時に、安田と山下はおもしろい映画でも見物し終わったように無言のままやんわりと立ち上がって外に出て帰っていったのです。これは12月27日のことと思います。
そして多分この数日後、年明け数日後だと思うのですが、この時と全く同じような状況があり、その時は山下が一人、この時ほど露骨ではなく、彼女の方も控えめで、それでいて控え室の出入り口の前まできて、かがんでなにかを置いたのか拾ったような素振りを見せたことがありました。あるいはこの数日前で十二月の中頃だったのかもしれません。いずれにせよ両者とも、彼女は退社時に軽四(6601号)を会社面前に停め、そこに私が直接声を掛けることを望み求めていたものであります。この時点で安田が、彼女が私に強く働き掛けていることをはっきり認識していることを私は見て取り、以来安田の意見はまともにしないよう心掛けるようになったのです。
また、今思うに、この当時の安田と山下の私と彼女に対する見解は、他の社員同様東度の解説が強く影響されていたのかもしれません。すなわち安田の妄執は東度の言葉を媒介して発展していったものかもしれず、なにぶんにも安田の知能の程度と固執性でありますから、それらが相俟って安田は通常の人が考えられないような認識を有し、思い込んでいたことも考えられます。すなわち客観的な常識で判断するより安田の異常心理による主観によって判断した方が真実に近づけるのではあるまいかと、私は思うのです。また、この判断を誤ったことこそがそもそも事件の原因の一つであったように思うのです。(これは27日ではなく、両者とも一月上旬のことであったかもしれません。)

⑱12月27日と思われる事柄
当日、私は午後四時過ぎ二回のミール移動を終えて会社に戻ったのです。それから暫くして津幡のYTと和田が、ミール移動を山下が三回私はトラックの修理のため二回を終えて戻って来たのです。
一階控え室にて雑談をしながら、もう退社しようかと話していたところ午後五時をまわって二階から呼び出しコールが掛かり、私が出たところ彼女が、「山下さんか和田君いますか」と言ったので、私は山下に電話を替わったのです。そこで彼女は、山下に、和田君とどちらかもう一度ミール積みにハイミールに来るよう、東度さんから連絡があったと言ったようです。山下は、自分は三回運んでいるので問題外と言った風に話しました。そこで私は、和田と一緒に和田のトラックに同乗して行くことに決めたのです。そしてすぐに、二階に上がってその旨を彼女に申し向けたところ、彼女はひどく疲れ果てたような顔で、 恨みを込めたような表情で私を見ておりました。
それから私は和田と一緒にハイミールに行ったのですが、その走行中、金沢港に出たあたりで和田は私に「再婚する気ないが、不便やろ嫁さんおらんと。うちの事務員のあやちゃんなんてどうや」などとさりげなく軽い冗談ぽく言ったことを覚えております。
それから私と和田はハイミールに行ってミールを積み、それから六時半頃に会社に戻り、そして北安江と諸江町の境あたりにあるクルクル寿司に行ったのです。それから一度会社に戻って(だったと思います)、私はこの時も和田の乗用車に同乗して、初めて和田の自宅アパートに遊びに行ったのです。そして夜十一時か十一時半頃に東力の自分のアパートに帰ったように(着いた)思います。

(2021年10月07日補足:)
 「クルクル寿司」とあるのは店名ではなく、回転寿司のことだと思います。北安江と諸江町の境あたり、というのは当時はまだなかったアル・プラザ金沢の辺りになりそうですが、その辺りに回転寿司があったという記憶はありません。

 和田君のアパートに行ったのは2月中だと思っていましたが、先に見かけていた平成5年11月28日付の手書きの書面では、顔を思い出せない市場急配センターの新入社員と一緒にいったような記述がありました。名前はなんとなく憶えているのですが不思議と姿が思い出せず幽霊のようです。

 年末の12月27日の夜に初めて和田君のアパートに行ったというのも意外ですが、住所は諸江と聞いていたように思うものの、浅野川線の電車の線路の近くにあるアパートで、漫画にでも出てくる風景に思えてしかたがありませんでした。

⑲12月28日土曜日の夜

また、この時多田は、私が文さんとうまくいったら彼女を紹介してくれるように頼んでやると言うとすごく喜んでおりました。(28日午後)

その日私は、午後から多田と一緒に(手伝ってもらって)石川丸果 倉庫で、新年四日卸しの岐阜卸しの馬鈴薯を積んだように思います。
そして夕方になって、一階控え室で、多田、西口、そして元急配の社員(一人は峰田だったかも)二人と一緒に雑談の末、浜口さん宅に行くことになり、一度市場輸送に行ってから、浜口さん宅に訪れ、そして諸江町内の焼き肉屋六歌苑に行き、それから浜口さんと別れ残りのメンバー5人で急配に戻り、そのまま連中と控え室で雑魚寝をしたのです。
 また、夜中に多田と西口が申し合わせてサウナに行って来たようでした。この夜になると多田は不機嫌になってあまりしゃべらなかったことを覚えております。おそらく私のおごりで片町に行き女をナンパすることを相当期待していたと思われそれが逆恨みのようになっていたものと考えられます。そして次第にそれが彼女に投与されるようになっていったものと思われます。

(2021年10月07日補足:)
 成り行きが簡単に記述してありますが、被告発人多田敏明と西口君に被告発人浜口卓也の自宅に行くことを誘われたのは、金沢市場輸送の給油機の近くだったと記憶にあります。給油の目的以外で金沢市場輸送に行ったとも考えられないですが、事務所よりの場所でした。

 金沢市場輸送にいる時点で外はすっかり暗くなっていましたが、冬至に近く最も日の短い時期ではありました。いったん、市場急配センターの運転手控室に戻ったことは理解できますが、その場に峰田君の姿があったことは記憶に残っていません。

 それでも私と被告発人多田敏明、西口君の3人より多い人数で、被告発人浜口卓也のアパートを尋ねたことは間違いないように思います。アパートには長くおらず、飲食をすることもなく、焼肉店に行ったような記憶となっています。

 その数日前に人気の評判店と聞いていたような気もする諸江の六歌苑という焼肉店ですが、そこではけっこうな数の若い運転手が集まっていました。中には市場急配センターで仕事をしているのを見たことのない顔もあったと記憶にあり、不思議に思っていました。

 時節柄もありますが、まるで忘年会という雰囲気で、年末はそれぞれも予定もあったと考えることからその場の成り行きでの来店ではなかったように思えます。被告発人多田敏明と西口君のエスコートがあって私が参加したことになります。

 峰田君の姿があり、笹田君もいたように思うのですが、西口君は別にして、それより若い年頃が多かったように印象にあります。西口君は体格も大きく落ち着いて年長者の雰囲気がありましたが、被告発人安田繁克と同じ当時21歳と聞いていたように思います。

 この12月28日は市場急配センターの仕事納めでもあったと思いますが、夕方にはパチンコオークラで被告発人安田敏とも会っていました。午前中は被害者安藤文さんが被告発人池田宏美と大掃除をしていて、被告発人松平日出男のベンツで給油に行った記憶もあります。

 平成3年は12月21日も同じ土曜日でしたが、21日の夜は片町から市場急配センターに戻ったところで、陽気に酒盛りをするような運転手が他にも数人いたような記憶があり、28日の夜遅くも似たような盛り上がりの雰囲気がありました。

 実際に、市場急配センターの運転手控室で酒類を持ち込み宴会をしていた様子というのは、平成4年2月1日の夜の私と被告発人安田繁克以外に記憶にはないのですが、年末で開放感も強かったん他、酔っぱらいが騒いでいる雰囲気がありました。

 なお、自由な社風で、私には真剣に注意などしたことがなかった市場急配センターの社長、被告発人松平日出男ですが、他の運転手には厳しい一面があり、注意では済まさず首にしたという話を聞くこともありました。

 また、当時の市場急配センターの場合は、トラック持ち込みの契約運転手のような制度がありましたが、基本は運送会社の運転手は運送会社の社員という時代で、派遣という雇用形態もまだなかった社会情勢だったと思います。

⑳12月29日日曜日

当日、私と和田と多田は、多田の四トンウィングに乗って昼頃増泉の日本通運に行き、高知からトラックを待ちながら近くのレストランココスで食事をし、それから日通で青果物を積んで会社に戻り、午後二時頃に会社を出発して右の三人で長野の市場に行きました。帰って来たのはその夜の夜中の三時頃だったと思います。それから三人で、和田の乗用車で、中央市場内のゴミ置き場の横にある食堂に入って食事をしました。

(2021年10月07日補足:)
 被告発人多田敏明と和田君の3人で長野の市場に行ったことは記憶にありますが、年末の12月29日とは意外でした。中央市場内のゴミ置き場というのは記憶になく、それらしい場所の隣に食堂があったとも記憶にありません。

 長野の市場とありますが、長野市の市場で強く印象にあるのは、鹿児島の市場から白菜を運んだときで、ドーム型にも近く屋根が高く、証明が明るい当時は珍しく感じる青果市場でした。同じ敷地内であった可能性はありますが、長野市の市場に鮮魚を運んだ記憶はありません。

 平成3年の12月から平成4年の3月は、金沢市内で雪が少なかったとも記憶にあるのですが、長野の市場に向かったときは、少なくとも新潟県の妙高高原の国道18号で圧雪の積雪があったと記憶にあり、運転には気を使っていました。

 どうも12月28日が仕事納めだと思っていたのが、12月30日の仕事納めだったようです。29日の日曜日に仕事をしたというのも珍しく感じていましたが、この増泉の日通には昭和59年に金沢市場輸送の4トン保冷車でちょくちょく仕事に行っていました。

 のれん会、とかいう展示会の仕事も増泉の日通ではあったのですが、その後、展示会の仕事というのはほとんどトナミ航空の「うまいもの会」だけの仕事となっていました。例外的にのれん会の仕事もありましたが、数も少なかったと思います。

 その増泉の日通は、金沢市場輸送の竹沢俊寿会長が、昔、事務職をしていたように聞いたこともある会社でした。日通の下請けの運送会社が多い時代で、金沢市場輸送でも昭和59年には日通カラーの大型平ボディ車が2台新車でありました。

 増泉の日通は、昭和30年代から40年代が全盛期であったような古い時代の雰囲気を感じさせていましたが、その当時は金沢で紡績業が盛んで、その後、衰退したという話も聞いていました。大和紡績などがあったはずです。

 金沢市大和町の大和紡績とは違うかもしれないですが、西金沢に近いところにも大きな紡績工場の跡地があって、平成18年の秋にはその場所がパチンコマルハンになっていました。3月にあった能登半島地震の前年です。

 Amazonでも宅配はクロネコヤマトがほとんどでたまに佐川急便の配達がありますが、日通の宅配というのは経験がありません。日通は日本通運ですが、平成4年当時はまだ何かで日本一の運送会社と聞いていました。自社便のトラックの保有台数は福山通運が1位だったとも思います。

 今はそういう運送業界の話も見聞きしませんが、日本通運のトラックというのは長く見かけておらず、ここ1,2年はテレビもほとんどつけなくなったので、日本通運のCMというのも見かけていません。

- 国内輸送 | サービス・ソリューション | 日本通運https://t.co/PrJDwmrgRg

 気になって調べたところ、上記のページに大型車の写真がありますが、白のボディに赤と青色のラインというのは、平成3年の春に金沢市場輸送の新車のウィング車のカラーと似ています。本恒夫の娘がデザインしたという話があるカラーでした。

 日通カラーといえば、昭和の時代、オレンジ色のような黄色のボディに、日通のマークが入っているのが定番でした。日通のマークは変わっていないようにも見えますが、ずいぶんと時代が変わったものだと思いました。

1)12月30日の私の行動
 
第1項 当日午前十時頃、私が一階控え室にいたところ、彼女は何度もずっと玄関のガラスドアを拭いておりました。沈痛な面持ちで.....。

第2項 それから暫くして私は二階に松平に呼ばれていったところ、松平は私に頼みがあると言って、ベンツに乗って藤江陸橋の側にあるガソリンスタンドに行って、給油をして洗車をしてもらってきてくれと言いました。私は下に降りて、和田を誘って一緒にベンツに乗って出発したのですが、その時も彼女はまだ一人で玄関の掃除をしておりました。

第3項 午後三時頃、私は二階で松平から給料の一部と20万円の入ったボーナスをもらったのです。そして、28日の土曜日だったと思うのですが安田と一緒に行き服を買いズボンの寸法合わせを頼んだ紳士服モリワンにそのズボンを取りに行ったように思います(安田と一緒に行った時、強風で車のドアが曲がってしまった。また、その何時間か前には裏駐車場でトラック(3068号)より降りた瞬間に21日松平にもらった帽子を強風で飛ばしなくしてしまった。)

第4項 それから私は一度会社に戻り、それから安田に出産祝いの祝儀袋を渡すことを思い出し、それから安田を捜しまわったのです。そしてちょうど日が暮れかかった頃になってパチンコオークラで安田を見つけ、外に呼んで祝儀袋を渡し、それから私も暫くそこでパチンコをして午後七時頃に東力の自宅に戻ったのです。そしてまもなく私はかねて思いを決めていた通り彼女の自宅に電話を掛けたのです。しかしこの時も彼女のお母さんが出て彼女は不在であると言われたのです。
訂正 私が自宅に戻ったのは八時十分ぐらい前だった。それまで安田と二人で近くの焼き肉屋に行っていたのであるがこの記述をした時点ではまだ思い出せていなかったようである。

(2021年10月07日補足:)
 12月28日と思っていた仕事納めが12月30日で、パチンコオークラに被告発人安田敏を探しに行ったのも30日になるとわかりましたが、被告発人安田敏と一緒にパチンコをした記憶も、焼肉店に行った記憶もありません。

 パチンコオークラの近くの焼肉店とあるので、平成4年1月18日の夜に被告発人多田敏明と二人で行った、市川タイヤの向かいあたりの焼肉店になりそうです。他に近くに焼肉店というのはなかったはずですが、いつの間にか出来てきた新しい店でした。

2)十二月三十一日

当日、私は能登の実家に帰省するのに先立って夕方に彼女の自宅に電話を掛けたのですが、この時もお母さんが出られて「先ほど友達が迎えに来て一緒に出掛けたんです...。」と言われました。この時も夜七時半頃だったように思います。

(2021年10月07日補足:)
 「先ほど友達が迎えに来て一緒に出掛けたんです...。」という被害者安藤文さんの母親の言葉は記憶になかったですが、12月24日の夜には10本のバラの花が自宅に届いていたはずで、そのことを強く意識したような対応が感じられ、娘の成長に心が弾んでいるように伝わりました。

3)12月中頃の安田の話

 それは12月の上旬だったかもしれません。ある日安田は私に自慢気に「この前、事務所であの子セーターの編み物しとったわい。好きな人にあげるやと。市場輸送の若い女の事務員来て教えてもらうとか言いとったな...。」およそ右のようなことを、さも彼女にはちゃんとした彼氏おるんや。すっかりあきらめやなどといわんばんりのうれしそうな口振りで言っておりました。
訂正 私の記憶では彼女の方が出向くように聞いている。ここでなぜ相手の方が来るように書いているのか釈然としない。
平成四年一月中
平成四年一月中において有ったと思われる主な事柄は次の通り、なお順序はなく疑問点と確かな事実を中心に記載したいと思います。

(2021年10月07日補足:)
 さきほど平成3年12月中の出来事として出てこないのが気になっていたのですが、忘れていたところ12月の最後の記述に出てきたようです。金沢市場輸送の若い女子事務員とありますが、一人は先輩の谷口さんで、若くはあったのですが年長者だと思っていました。

 もう一人あとで入社した若い女子事務員がいて学生気分が残っているように思え、会話になるとニコニコと微笑んでいましたが、とても無口なタイプでした。先輩になる谷口さんもそうですが、二人の金沢市場輸送の女子事務員を市場急配センターで見たことは一度もなかったです。

 谷口さんは既婚者と聞いていたように思いますが、どの辺りに住んでいるのかなど、プライベートな話に踏み込むのは躊躇があり、聞いたことがなかったと思います。たまに話すことがありましたが、竹沢俊寿会長の夫人に威圧感を感じている話しぶりでした。

第1章(第一点)

第1節
新年顔合わせがあったのは一月四日と思われる。当日私は正午過ぎ皆より遅れて二階事務所に入った。安田敏、浜口さんなどがいたのでその近くに座った。そこは換気扇の下であった。彼女は黒い皮のコートを着ていた。よく私の方を振り返って気にしていた。それもあってか松平が私に換気扇を作動するように申し向けた。
 会社の面前で、彼女が帰りがけに、私は偶然に横に停めてあった自分の車に煙草を取りに行った。その時彼女は私が声を掛けることを期待しているように見えた。
①そのあと私は浜口さんに誘われて河野さんの自宅に行った。あとでカベヤと松平がベンツに乗って来た。そして夕方六時頃、私は松平とともにカベヤと三人で河野さん宅をおいとまして松平に会社まで送ってもらった。そのあと、私はトラックの中で暫く仮眠しようと思ったが眠れず、まもなく岐阜に向け出発した。岐阜からは夜中か、途中に仮眠して朝方に金沢に戻った。訂正 私が岐阜から金沢に戻ったのは夜中である。朝明るい時間であったとは考えられない。
そしてその次の日の午前、私は安田のアパートに遊びに行った。その時初めて安田の生まれたばかりの赤ちゃんを見た。それから加湿器を返すという安田に付き合って安田の車で泉野のリース屋に行った。その帰り道電柱に彼女の住所である泉ヶ丘二丁目の標示を見た。そのあと赤坂プラザに行って地下の遊技場で安田と卓球などした。        ②そのあとで私はその赤坂プラザの地下にある貸しレコード店でCDを借り(この時私はカードを作ってもらったかもしれない)、それから安田の自宅で夜にかけてそれを録音してもらったかもしれません。
私は先の上申書の中で、東力ストアーの前で追突事故にあったのは安田に付き合って安田がその前日に古河から積んできた荷物を降ろしに行き会社に安田のトラックを停めて安田の自宅に戻る途中小立野のギョーザの王将で食事をおごってもらったあと安田の自宅の前に停めてあった自分の軽四に乗って午後十一時前頃東力の自宅に戻り煙草を切らしたことに気付きすぐに東力ストアーに買いに出たところで事故にあったものと記述してきたように思うのですが、これは次のような疑問点があるようです。
③まず、休市日の前日に安田が古河で青果物を積んだとすると、5日日曜日の前日は4日であって当日安田は新年顔合わせに出席しており古河にいることは考えられない。
④12日の月曜日、私は池袋に向かって出発しているのであり得ない。
⑤15日の祝日に私が安田の自宅に遊びに行ったことはまず間違いないと思われる。しかし、それを(私が安田の古河便に付き合い帰りにギョーザの王将に行った)15日とした上で東力ストアーの事故も当日だとすると次のような問題が出来るのです。

(2021年10月07日補足:)
 金沢市泉野のレンタル店というのは記憶にないですが、加湿器のことで被告発人安田敏に付き合ったのは場所は憶えていないもののはっきり記憶にあり、昼の明るい時間帯でした。

 被告発人安田敏の自宅は金沢市花里で、そちらから向かうと、金沢市泉野は被害者安藤文さんの自宅の住所である泉ヶ丘二丁目より手前になります。赤坂プラザは、正確な住所が不明で、その後も店があるのか未確認ですが、住所は笠舞と三口新町の境あたりでした。

 平成3年12月21日に、夕方に床屋に行った後、被告発人安田敏のアパートに向かったことで気になっていたのですが、被告発人安田敏のアパートには日中の明るい時間に、新神田あたりのケーキ店で買ったケーキを手土産に訪問した記憶がありました。

 餃子の王将というのは、昭和59年に金沢市場輸送の年配の運転手の勧めで、なんどか京都市山科区の店舗で食事をした記憶があるのですが、その後、全国展開し、金沢市では平成10年辺りに、津幡町の検問所の近くに店舗があったという記憶ぐらいです。

 被告発人安田敏と二人で行った餃子店で記憶にあるのは、金沢市小立野の第七餃子になると思いますが、平成3年の8月か9月のことで、まだ市内配達の仕事をしていた時期とも考えられます。

 また、東力ストア前で追突事故を受けたのは、夜で21時より遅い時間だったと記憶にあるのですが、花里の被告発人安田敏のアパートからの帰りで、一度、東力のアパートに戻り、すぐに自販機のタバコを買いに向かった可能性はあると思います。

 平成4年1月の新年顔合わせは、4日であったと記憶にあるのですが、その夜には岐阜市の市場に向かい、日付が変わる前に荷降ろしを終え、すぐに金沢に戻っていたとも記憶にあります。

 なお、馬鈴薯とありますが、メークインもあり、どちらも北海道から船で金沢港に運ばれ、金沢中央卸売市場の裏にある倉庫で保管され、そこで荷積みをしていました。昭和59年のバナナセンターと呼ばれた倉庫の奥になります。

 バナナセンターの建物もずいぶんと古い年代を感じさせるものでしたが、平成3年の9月には、金沢中央卸売市場の裏の道路の少し離れた場所に移転し、新しい倉庫となっていました。古いバナナセンターは、昭和59年の秋に広島商店のアルバイトにも行っていました。

 このバナナですが、昭和59年には冬場に、バナナに毛布を掛けて運んでいたことが記憶にあり、昭和60年代になると冷凍機付きの保冷車で定温輸送が出来ないと荷積みが出来ないという話がありました。それでも平成3年の9月には東京の晴海埠頭からバナナを運んだという記憶があります。

⑥出所後H9.3/6の追加記載
☆まず6日と思われる。
私は事故の翌日に出社したところ、二階にて梅野、大倉などと一緒になり、大雨の中彼女が裏駐車場にわざわざ車(6601号)を停めて来たことがはっきりしており、そのあと彼女にコーヒーを入れてもらうのに梅野がかなり気を遣って見せた。
⑦そしてその日の午後、二階事務所で浜口さんと河野さんと竹沢が日産ディゼールのセールスマンと新車の発注のことで談合していたところ、私が「コーヒー飲んでもいいが?」と誰にともなく申し向けたのに対し、彼女が大きな声で「うん」と答え、その直後に私のいた台所に駆けつけ食器を洗い始めたところ、私がそこを出ると、ちょうど談合が自分の希望するように終えた浜口さんが私の体を押して彼女のいる台所の中に連れて行き、彼女に「お嬢...」何かを申し向けたのです。そこで私は緊張のあまりとっさに話題をあげようと「昨日追突された」旨を浜口さんに申し向けたのです。また、その日、そのあと浜口さんは関東方面に出発することを話しており、私は関西に向かうところであったように思うのであります。訂正 談合という言葉は不適切であると思われる。ここでの表現叙述は私自身が読んでも分かりずらく、内容がはっきりしない感がある。私が二階に入ったのは仕事先かどうかは分からないが外から戻ってすぐだったと思う。この日以来三月の上旬まで台所のコーヒーメーカーは姿を消したのであるが、それ以前にコーヒーを飲んだ記憶がはっきりしない。これが分かれば時期の特定に役立つのであるが少なくとも一番近接しているのは梅野と大倉がいた朝のことである。なお、現物の記載にしたがって番号を振るようにしているが内容自体とはあまり関係がない振り方である。一応ここでも番号を打っているがパソコンの機械自体⑳までしか丸数字がないのでそれを超える部分は違ったものを使っている。また、ここで私は浜口さんが関東、自分が関西に向かうところであったと思うのです、などといささか曖昧な表現をしているが、これはまず確実なことです。私は今気付いたのですが、この時浜口さんに昨夜の事故のことを話したのは確実なことで、これは他の書面でも再三記述していることですがその時彼は金になるとか金を取るべきであるようなことを言ったのです。刑務所にいた頃の記述ではこの日の特定が出来なかつたので重視していなかったのですが、先の趣意書にも記載したように事故の資料によってもその日が15日の夜と特定されているので、やはりこのコーヒーの件があったのは16日ということになります。そこで問題の日報を見たところ、16日の木曜日に私は水島倉庫に二回ミール移動をしたことになっているのです。さらにその翌日はこれも問題の大きい七尾から山梨に行き池袋から展示会の引き上げの仕事をした運行に出発したことになっているのです。私がなぜこの16日をコーヒーの件のあった日だと考えなかったかといいますと、その一番の原因はこの時期に文さんとの連続会見があったからです。会見の時の彼女はすごく恥ずかしそうにしていました。言い換えれば私と彼女の関係がもっとも穏やかだったのです。その穏やかさと、私が台所で彼女から逃げるような行動をとってしまったことはとても同時期の状況とは考えられなかつたのです。まだまだ検討の必要がありますが、その会見の時期自体にも特定が困難な問題が伏在しているのは趣意書に指摘してあるとおりです。特に初めて彼女に会社の横で声を掛けたときはいい感じの雰囲気だったのです。しかしながらあまりにそのことがうれしく印象的だったため私はその前後のことをほとんど覚えていないのです。その場のことだけ、彼女に声を掛けた瞬間の情景だけ鮮明に残っているのです。外はすっかり暗くなっていましたが遅い時間であったとか待ち時間が長かったという印象はないので遅くても五時半頃だったと考えられます。また、コーヒーの件の埋め合わせに彼女に声を掛けたという覚えもなく、唐突に声を掛ける気になってのでもなく、その場の状況で邪魔者がいなかった事などで偶然の機会を捉えたにすぎないのですが、私と彼女の関係自体は概ね良好で熟した感があったと思います。あるいはその時の彼女恥ずかしそうでありながらうれしそうな態度がそれまでの暗雲を一気に吹き消したのかもしれません。その彼女の反応は私の予想外の事でした。私の観念ではこの印象が前妻が訊ねてきた翌日に事務所で見た彼女の悲しそうな姿まで続いていたのです。それゆえ、この間に彼女本人が夕方の電話で今晩自宅に電話を掛けてくださいといいながら自宅に電話を掛けたところ出なかったことなど入り込む余地はないのです。また、その16日に関西に行ったこともまず間違いないと思うのですが、ここでも翌日の夕方に刀根PAからの電話で彼女に最高の女やと思うなどと言ったこともこの時期のこととしてはやはり考えられないのです。その前日の夕方には梅野のシャブ中発言がありこれが電話の内容の一番の動機になっていたことも再三述べているとおりなのです。数多くの問題がありますが考えれば考えるほど頭が痛くなる現状です。ここで一番の解決になりうるのは、会見が三度であったというのは私の思い違いで実際は二度しかなかったということかもしれません。先の一度の時は、彼女が美容院に行くと言って帰ったことでこの時は私が二本の缶コーヒーを彼女に手渡しています。特にコーヒーメーカーの件のことを意識していた訳ではなくその可能性もないと思います。そして最後の時が、前妻から連絡があった翌日の夕方でこの時はほとんど喧嘩のような状態になっているのであり、この事実は水口なども目撃しており客観的にも裏打ちされたことなのです。最初に声を掛けたとき、缶コーヒーを用意していた覚えは全くなく、その缶コーヒーはその少し前に中央市場の中で買った物なのです。その中央市場に行ったのも会社に電話を掛け彼女に話すのが目的だったような気もするぐらいなのです。しかし実際に電話で彼女と話してから声を掛けたという覚えもないので断定することは出来ません。今や私の望みのようにさえなりますがこれが二度であればその他の事実も整合性をもって論証できるのです。最後の時以外は彼女の申し出により実に短い時間で、具体的話などほとんどなかったのです。はっきりしていることはいずれの時も駐車中の私のトラックに乗ってもらいその中で話したと言うことです。なお、これは初めての記述になるかもしれませんが、缶コーヒーをあげたとき、私はトラックの助手席の方からドアを開け、そこから車の中に入って帰りがけの彼女に外で渡したのです。さて、裏駐車場での会見は二度であったのかそれとも三度であったのかこれは謎を解く大きな鍵となる問題です。しかし安易には断定できないのでさらに検討してゆきたいと思います。
ところで、16日に関西に運行に出たとすると会社に戻ったのは18日の土曜日ということになる。三度目の会見があったのは私の記憶によると21日の火曜日、松平提出の日報によると22日の水曜日ということになる。私のはっきりした記憶では18日の土曜日に積み込んだミールを日曜日の夕方に出発して翌日名古屋大橋の近くの倉庫で卸しそこから岐阜県の可児市に行きパレットを積んでその日の夕方遅くに金沢の浜田漁業の工場で卸している。この運行自体は松平の日報においても同様の内容であるが、積み込んだのが20日の月曜日で翌日に名古屋で卸して戻ったことになっているのであり、その運行の前には17日の金曜日に七尾をミールを積み込み土曜日に山梨で卸し、東京で一泊して日曜日に池袋のデパートで展示会の荷物を積んで月曜日にそれを金沢で卸したことになっているのである。いずれを見ても長距離の運行に出ている日にちが多いので夕方に会社で彼女に声を掛けた可能性は限られている。私は記憶の場合では、18日の土曜日以外に可能性は考えられず、日報では、16日の当日と20日の月曜日の夕方名古屋に出発する前がかろうじて考えられるのみである。名古屋行きの運行では夜遅くに出発するのが通常で感覚的にも長距離というよりローカルに近い負担の仕事である。あまり早く出発するとかえって重量オーバーで捕まる可能性が高くなるということもあり、だいたい早くても7時以前に出発することは経験上ほとんどなかったはずである。これが大阪となるとかなり事情が違って積み荷の内容にもよるが、遅くても6時半頃には出発する。勢い時間的な意味の精神的余裕は少ない。可能性とすれば16日の木曜日にコーヒーメーカーの件があり、その数時間後に会社の横で初めて彼女に声を掛けたことも考えられるのである。これが名古屋行きの仕事であったなら私は迷わずその可能性を肯定できる。なぜなら名古屋行きの仕事前であれば精神的時間的余裕が充分だからであり、たとえ彼女との会話が深夜にまで及んだとしても何等気にはならなかったはずである。つまり仕事のことを気にせずに彼女に声を掛けることが出来たことになる。一方、これが大阪だとすると時間的な問題は抜きにしても、大阪に行った荷物は市場卸しの馬鈴薯以外にはあり得ないので大阪で荷物を降ろし終えた時間が必然的に遅くなるのであるが、深夜に馬鈴薯を卸したというのも休市日の夜中を除いて記憶にはない。只、大阪でも北部市場であれば時間はあまり気にせず余裕を持っていたはずである。本場のように市内の中心部にはいることはなく、市場の中でも込み合うことはほとんどないのでまるで事情が違うのである。どちらかといえば本場の方が多かったと思うが、着くのは8時頃がほとんどで9時以降に入ったという記憶はない。これは私の経験上本場の混雑や荷卸しに伴う問題性を十二分に認識していたためである。とりわけ鮮魚においては日本最悪の卸し先であり、青果においては勝手を知らないだけに不安が大きく過去にもひどい思いをした経験があったので最初から最後まで緊張が解けることはなかった。付随する事柄で一例を挙げても、荷卸し中に財布を取られたとか泥棒を多いと聞いていた。それ以上に気に掛かるのは山口組の菱形のマークを入れたトラックがよくいることで、普通の運送会社でも組関係の者が多いと聞いており、実際に同業者である金沢のウロコ運送の運転手がわずかにぶつけただけで何百万円の請求を受け金沢の会社まで押し掛けてきたという話を聞いていた。混み合った市場の中でそのようなトラックにぶつけてしまうことは避けることの出来ない多少の蓋然性が伴うのである。どうしても普段の倍以上に神経を使わなければならなかったのである。遅い時間になればなるほど九州や四国からのトラックが集まってきて作業に手間取ることを痛く承知していたのである。少なくとも私の認識はこうであり、そんな私が特別の事情もないのに夕方遅くまで会社にぶらぶら時間をつぶしその上で彼女に声を掛けたとは考えられないのである。加えて、これは北部も本場も共通であるが、馬鈴薯の卸しが遅くなれば当然その次の仕事先である和歌山県のかつらぎ農協の到着も遅い時間になっていたはずである。全般的に私がかつらぎに到着したのは夜中の2時頃がほとんどだった。これより早いことも遅いこともあまり記憶にない。大阪からかつらぎ農協までの所要時間は大体二時間ぐらいだった。逆算すると市場で馬鈴薯を卸し終えたのは0時前後ということになる。荷卸し自体にどれぐらいの時間が掛かったか性格には思い出せないが大体2時間ぐらいでスムーズにゆけば一時間半ぐらいだったかもしれない。これは市場に入って出るまでの時間の概算ではない。卸し始めるまでにも結構時間の掛かることがあり、受領書をもらうのにも多少の時間が掛かったはずである。一応九時に市場に着いたとすると、金沢を出たのはそれから五時間ぐらい前と見ておけばそう違いはない。すると四時に金沢を出たことになる。スムーズにゆけば四時間ぐらいであるから八時から八時半というのがやはり一番妥当な線である。これを六時に出たと考えると二時間づつのずれが出て、最終のかつらぎ農協では深夜の四時頃ということになる。こんな事も一度はあったような気もするが、滅多になかったことは確かである。そもそも六時の出発というのが中途半端なので、遅くなるときはもう少し遅く六時半か七時頃だったと思われる。当時の私の生活ぶりから考えて特に用事があったとは考えにくいので遅くなる原因は、会社で話し相手がいてついつい遅くなったということだろう。しかし、先にも述べたように大阪でも北部行きであればかなり気楽に考えていたので会社で時間をつぶしていたことも十分考えられるのである。
しかしどのように考えてみても、16日の木曜日から21日の火曜日までの間に三度の会見があったということはあり得そうにないのである。16日の木曜日以前に初めての会見があったということもこれまで再三の指摘の通り存在を認めることは困難な現状に変わりはない。先に三度ではなく二度しかなかったと仮定を立ててみたが、中央市場で缶コーヒーを買ってから会見に臨んだ時は、あらかじめ予定の行動をとったと考えられるのに対し、鮮明に覚えている初めての時は、意外な感じで偶発的な状況を捉えているのである。もう一つ気になるのは、日野自動車の前からの電話で彼女にラーメンでも食べにゆこうと誘った日の夕方に、会社に電話を掛け彼女から今晩自宅に電話してくださいと返事をもらいながらお母さんが出ていないと言っていた事実である。これとは別にある日の午後七尾から関東に向かう途中に県境付近の漁協の間かから掛けた電話で彼女に「文ちゃんのお母さんといい人やね。もう当分電話せんし、今度直接声掛ける」などと言ったことである。論理的に考えると、彼女が自分から電話を掛けてといいながら出なかった直後のことと考えられるのであるが、日野から電話を掛けたのは14日の火曜日である可能性が抜群に高いのである。日野に行った用事は12日の池袋のデパートでのシートの破れ以外には考えにくいのである。しかし、これは一月の初め頃のことであったのかもしれないと私は現在考えている。しかし、ここでもネックとなるのは、池袋に向かった12日の日曜日の夜に彼女の自宅に電話を掛けている事実である。この時は直接彼女が出たはずである。彼女が電話に出たこと自体、十一月の終わりの伊吹SAからの電話以来だったので特に印象が強いのであるが、お母さんから彼女に電話をつないでもらったこと自体も初めて掛けた十月の新車が来た日だけで他はすべて彼女が出るか、お母さんか兄貴か父さんが出ていずれもいないと言っていたのである。
私はこれまで、彼女に「文ちゃんのお母さんといい人やね。もう当分電話せんし、今度直接声掛ける」などと言った事があったのは、日野からの電話の日の件を内容にしたものとばかり考えてきたようであるが、現在思うに、それは大晦日の電話のことを指していたのかもしれないとも思えるのである。七尾から高岡にトラックで向かっていたことはそれ自体関東への運行の他はないのである。しかしながらどの運行の時であったか、これも特定できていないのである。私の記憶の感覚では新年はじめの時期に行った関東便といえば埼玉県の東松山に行った運行なのであるが、この時は東度の嘘による仕事のことで彼女と色々話しているのであって、同日のこととは考えられない。日報によればその一月の上旬に関東に運行に出たこと自体形跡がないのである。どんよりした曇り空の中で海の側の漁協の横のバスの停留所の横でもある電話ボックスから掛けた電話でこの時初めてお母さんのことを話したことは鮮明に記憶しており、それと同じぐらいに他の事柄も脳裏に刻まれているのである。
⑧いずれにせよ第一点の⑥及び⑦の事柄は、休日開けの気分だったのです。すなわちそれは11,12の慰安会 (新年会)のようでもあり正月休み明けの6日のようにも思われるのです。
⑨また、この当時のポイントとなるのは、一月中においては、正月休みの市場側の都合による代休があったということです。
《補足》
出所後、中央市場に直接電話を掛けて尋ねたところによると、代休というのはないように言われた。以前運転手の間でそのように聞いていたのであるが、話した者の想像により決めつけだったのかもしれない。しかし一方で私自身もそのような経験があったような気もするのではっきりしたことは言えない。なお、この時の紹介の目的は、水曜日の臨時休市のことであった。あまりはっきりとは覚えていないが、たしか月二回で第二と第四の水曜日だが必ずそうと決まっているわけではないような話だった。
⑩ そして、安田の古河便の付き合いと、その後にあったと思われる東力ストアーの追突事故が必ずしも一致せず全く違った日であった可能性が半々くらいあるという事であります。 H.9,3/6

(2021年10月07日補足:)
 終わりに「H.9,3/6」とあるのは平成9年3月6日のことだと思います。始まりの部分に「⑥出所後H9.3/6の追加記載」という記載もありました。この中で「松平提出の日報によると」とあります。

 この日報というのは、業務日報という標題であったのか忘れましたが、しばらく前にPDFファイルを作成した資料になります。被告発人松平日出男に電話で頼み、被告発人大網健二に市場急配センターに取りに行ってもらい、彼の兄が宇出津の自宅に届けてくれました。

 車はホンダのアコードでライトバンでしたが色が黒でした。ワゴン車以外の車は他に記憶がないのですが、自宅に届けてもらいその車に乗ると、被告発人大網健二の兄は車を走らせ、行った先が姫の高倉漁港でした。地元で高倉漁港とは呼ばないのですが、現地に看板があります。

〈〈〈 2021/10/08 12:35:30 Linux Emacs: 〈〈〈

〉〉〉 Linux Emacs: 2021/10/08 14:33:16 〉〉〉

- 高倉漁港 - Google 検索https://t.co/Ul08rhUstD]

 天気がよく気候も穏やかだったという印象があり、4月から6月のことと考えていましたが、3月6日の時点で被告発人松平日出男の日報を入手していたとは全く意外でした。これだと2月中の可能性も出てきます。

 冬の北陸というのはどんよりと雲が広がる風景が多いですが、2月中でも小春日和というのは少なからずあります。特に印象に残っているのが、被告発人松平日出男のベンツで北陸ハイミールに送ってもらったときのことです。

 姫の高倉漁港は、小木港と同じく北洋の遠洋漁船が停泊していたのですが、2015年辺りに一隻もいなくなったと聞きました。連続テレビ小説まれ、の放送があった頃で、姫に魚釣りに行ったときに散歩している地元の人に聞いたのですが、最盛期は33隻という話でした。

 昭和の時代は5月だったと記憶にあるのですが、現在は6月に入ってから遠洋漁船の出港があり、12月か1月から港に停泊していることが多いのですが、平成9年に被告発人大網健二の兄に連れて行かれた高倉漁港で、遠洋漁船を見たという記憶はありません。

 2010年から2014年の間も姫の高倉漁港に遠洋漁船は数隻停泊していました。その頃はよく姫の幸港にアジングに行っていましたのでよく憶えています。初めてアジングで強い引きのアジを釣ったのも幸港で2010年の12月の半ば過ぎのことです。

 姫の高倉漁港の近くは昭和56年に石川県立水産高校小木分校の通学路でもあったのですが、漁港の方に行くことは少なく、組合というスーパーには買い物に行った記憶があるのですが、漁港に行っても、海や船のいる方向には目を向けなかったような記憶となっています。

 考えてみると、平成9年に被告発人大網健二の兄に連れて行かれた姫の高倉漁港は、平成に入ってから初めて行ったようにも思うのですが、魚を水揚げするような櫓のような建物があって、前と変わっていないような感想を持った記憶も残っています。

 何を話したのかも記憶にないですが、姫に用事がなかったことははっきりしています。気が向いて行ってみただけという可能性もあるかとは思いますが、なぜ姫なのかという疑問もありました。

 次に、平成3年1月に裏駐車場で被害者安藤文さんに声を掛けた回数ですが3回に間違いはないと思います。最後が1月21日だったことははっきりしていますが、その前回に彼女は、美容院に行くと行っており、次に会社で見たときはショートカットヘアになっていました。

 金沢中央卸売市場の自販機で買ってきたジョージアのティスティの缶コーヒーを彼女に渡したこともよく憶えていますが、それと美容院の話が同じ時であれば、2回という可能性は出てきます。

第2章(第二点)

①その日の夕方二階事務所にて、梅野が、心労のためやつれ、そして私が思うに、ふらふらした女ではないと表示するために化粧していなかった彼女に対し、「...そんな顔しとったんか。シャブ中みたいやな」などと申し向け、「そんなん見えるけ。よく言われるぞいね」などと答えたことがありました。
 今思うに、これも事前に両者の間で打ち合わせか、意思の疎通があった上で、明らかに私の存在を意識してなされた会話であったように思うのですが、私が思うに、その日、その時、私は翌日にかつらぎ農協にてミカンを積むため大阪に向け走るようになっていたように思うのです。
②そして私は、その翌日に、めずらしく午前中か昼過ぎにかつらぎ農協を出発して、そして夕方後時頃北陸道の木之本インターと弦がインターの間にある刀根PAより会社に電話を掛け、一度要件を申して切ったのですが、その時彼女が何か話したそうであったので私は戸惑いながらすぐにもう一度かけ直し、彼女に、「やっぱり文ちゃんいい女やと思うなぁ....」などと言ったところ、彼女はすごくうれしそうに、「そんなことないよ。全然や」などと言ってくれたのですが、それで私は彼女がますます分からなくなり、「それだけ言っておくわ」などと言ってすぐに電話をほとんど一方的に切ってしまったのです。

(2021年10月07日補足:)
 「弦がインター」とあるのは「敦賀インター」の間違いです。前にかつらぎ農協からみかんをもらってきたという記述がありましたが、一部だけだったとも思うのですが、皇室に献上するみかんがあり、他に食べたことがないやわらなくて甘いみかんでした。

 そのみかんをくれたおじいさんのようなおじさんは、最初にかつらぎ農協に行って会った頃から、「べっぴん」に強いこだわりをみせ、その皇室献上のみかんも「べっぴんに食わせる」という言葉と一緒にもらったものでした。

 最初に顔を合わせた頃から私に「べっぴん」の話をするのも変だと思ったのですが、考えられたのは、先にかつらぎ農協に行っていた被告発人梅野博之が、私のことで彼女の話を吹き込んでいたことです。

 クセの強い関西人で「べっぴん」の意味するところもはかりかねたのですが、被告発人梅野博之がなにか吹き込まなければありえない話で、そのことを私は早い段階から指摘していたはずです。ただ、これまでは見かけていない気がします。

- ./hirono_hideki2021-10-08_145003.csv:2013-12-05 16:46:46 "新聞の広告に天皇杯受賞産地「愛媛ミカン」というのを見て思いだしたのですが、平成3年のちょうど今頃、和歌山県のかつらぎ農協で、ベッピンに食べさせろと、皇室に献上するのと同じというミカンをもらったことがありました。後にも先にも食べたことのないミカンで、普通に流通していないのではと。 "https://twitter.com/hirono_hideki/status/408502527320399872

③私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
④また、私の記憶によると、この関東便から戻った日に私はあがりで日野自動車の前の食堂の前の電話ボックスなどから数度会社の彼女に電話を掛け、「今日仕事終わったら一緒にラーメンでも食べに行かんけ」などと誘い。そのあと夕方に掛けた電話で、彼女に、「今晩自宅のほうに電話を掛けてください」といわれた事実。(時間は何時でもよいと彼女は言った。)
⑤そして私は、その日は彼女をが出るものと思い込んで、承諾は得ている思いから負い目もなく午後八時半、そして九時と三回ほど電話を掛けたのですが、いずれもお母さんが出られ、明るく優しい声で、ちょっと申し訳なさそうに彼女の不在を伝えたのです。この事柄は極めて時期がはっきりしないのですが、でも確かに思うことは、一月二十二日の未明(夜中の二時頃)に私が掛け彼女を怒鳴りつけた以前のことであります。一月二十五日に彼女のネックレスを見た私が、夜にかけた電話では、それまでとお母さんの態度が一変して悪くなってしまったのです。さらに、以来事件まで彼女のお母さんが対応に出たことは一度もなかったのです。(例外として三月二十三日の「いつまで話しとるが」)

(2021年10月07日補足:)
 さきほども出ていましたが、被害者安藤文さんから今夜自宅に電話を掛けてくださいと言われながら彼女が電話に出なかったという話は、すっかりだいぶん前に忘れていたものです。国道160号線沿いの漁港から掛けた電話の状況はずっと印象的に記憶にありました。

 日野自動車の前の電話ボックスからラーメンに誘った話もよく憶えており、前にも出ていましたが、被害者安藤文さんはそのとき、「行ける、行けるけど、今日はいけん。」と応えていました。行けない理由は尋ねなかったと思います。

- 女良漁港 - Google マップhttps://t.co/hTQnURn5RP

 Googleマップで調べたところ、国道160号線沿いでそれらしい漁港というのは上記の女良漁港ぐらいですが記憶とは違った感じで、漁港ではなかったような気もします。記憶にあるのは道幅が広く、緩やかな大きなカーブで、電話ボックスが海側にあったことです。

〈〈〈 2021/10/08 15:39:34 Linux Emacs: 〈〈〈

〉〉〉 Linux Emacs: 2021/10/11 16:21:16 〉〉〉

 昨日の10月10日に作成し、本日手直しした運行表のファイルが次になります。LibreOfficeですがExcelのファイルとして作成し、それをPDFファイルにエクスポートしたものです。GitHubのファイルとして公開しています。

- kk2021_10/運行表.pdf at main · hirono2016kk/kk2021_10https://t.co/HJ5U9lv141

 市場急配センターの業務日報をもとに作成したものですが、疑問の運行がいくつかあります。基礎となるデータの「業務日報.pdf」もGitHubにアップロードしました。48MBありますが、高速道路や給油所の領収書も一緒になっています。

- kk2021_10/業務日報.pdf at main · hirono2016kk/kk2021_10https://t.co/PlGtgfvR2F

⑥さて、右の①〜⑤の事実を他の事実に当てはめてみたいと思います。
まず①を1月6日に定めてみます。

1月6日〈月〉 金沢 シャブ中みたいやな①

1月7日〈火〉 大阪 和歌山
刀根PAの電話②

1月8日〈水〉 七尾 七尾
国道160号線からの電話③

1月9日〈木〉 関東 関東

1月10日〈金〉 北陸 あがり 「本庄」ってどう読むが?
北野さんからの退社時の電話

1月11日〈土〉片山津温泉せきやにて新年会

1月12日〈日〉 金沢
は確定事実

1月13日〈月〉池袋 古河

1月14日〈火〉北陸 金沢から宇出津・七尾=河野さんと一緒に行った。

1月15日〈水〉安田と一緒に古河便を卸しに付き合った。(王将)

1月16日〈木〉

(2021年10月11日補足:)
 「1月14日〈火〉北陸 金沢から宇出津・七尾=河野さんと一緒に行った。」とありますが、これは平成3年中で11月の中頃のことと思います。スーパーでみかんの出始めの大売り出しの時期という印象がありました。

 金沢市場輸送では九州の長崎、唐津、福岡県八女市付近からみかんを積んだのですが、和歌山県のかつらぎ農協のみかんは、それよりみかんの終わりが少し早い様子で、1月になるとみかんが少なくなり、いよかんや、他のすっぱそうな大きな柑橘類を積んだような記憶もあります。

 それでも平成4年1月中は、何度かかつらぎ農協に行ったはずで、2月の最初にも一度行ったような記憶が残っています。その最後にかつらぎ農協に行ったときは、歩いて集落を抜け、広い国道に出たところの食堂に入って食事をした記憶があります。

 「1月15日〈水〉安田と一緒に古河便を卸しに付き合った。(王将)」というのが記憶にないですが、考えられるのは餃子の王将で、長い間、金沢市近郊の店舗というのは、国道8号線沿いの津幡の検問所の手前だけであったように思います。

 平成4年1月に餃子の王将が津幡にあったのか記憶にないですが、平成10年には関係者KYNと配管工事の仕事の帰りに食事に入ったような記憶があります。金沢市近郊に他に店舗はあったかもしれないですが、津幡以外に入ったことはなかった気がします。

 なお、餃子の王将ですが、私は昭和59年のときに知っており、京都市の山科区の店舗に何度か入っていました。金沢市場輸送の先輩運転手から安くて美味しい店と聞いていたのですが、全国的な知名度となったのはその数年後のことと思います。

⑦それでは次に⑥の表に対する(仮定)問題点をあげてみます。
(ア)まず問題は一月十日です。この日私が日野自動車から電話を掛けたことはまず考えられないのです。それは1月10日に彼女が運行運賃表を作成しながら浜上さんに「本庄」ってどう読むが?と尋ねたこと、そのあと私が午後五時頃 、彼女の退社を待って直接声を掛ける決意をしていたところ、電話が掛かり、初め池田がそれを取って気まずそうに心配そうに彼女に電話を替わったところ、彼女は先方に対し、後で自分の方から掛け直すとか、今夜の予定はわからんとか、これも気まずそうに対応していたこと、そして私がショックを受け下に降りて控え室で横になっていたところ、彼女が降りてきて浜上さんに「本庄」ってどう読むが?と再び訊いたことなどすべてこの当日なのは確定的事実なのであります。
(イ)さらに⑥の仮説を事実と考えてみると、本書(二百三十五、第十七点のAと二百三十六のB)の事実は、当日あがりであったことから考えると(これも確実)どこにも入り込む余地はなくなってしまうのです。

(2021年10月11日補足:)
 運行表.pdfでは、1月9日に岐阜の市場に馬鈴薯を運んだことになっています。1月4日に岐阜の市場に馬鈴薯を運んだことはよく憶えているのですが、岐阜の市場というのは滅多に行くことのない市場で、一週間に2回も行っていれば、もっと記憶に残っていそうです。

 埼玉県の本庄のことはよく憶えています。保険金殺人事件で有名になったのは、ずっと後のことと思うのですが、いちおう確認しておきます。

- 本庄保険金殺人事件 - Wikipediahttps://t.co/49uu97F2NR 主犯Yが、自身の経営するパブ・スナックのホステスと常連客を偽装結婚させた上で薬物を使っての保険金殺人を3度実行させた。うち殺害を免れた第3の事件の被害者が1999年7月にマスコミに告発したことで、保険金殺人疑惑として大きく報道された

 この本庄という地名は、関越自動車道にバス停か何かがあって、早くから知っていたと思いますが、保険金殺人事件の事件名になるまでは、他に地名を見かけることはなく余り知られていない地名だったと思います。

 被害者安藤文さんもその場の思いつきだったのか、わざとらしく、笑いながら本庄の読み方を質問していました。自分が質問を受けたようにも思っていたのですが、私には分かりきった答えを被害者安藤文さんに話したという記憶はありませんでした。

 運行表.pdfでは、平成3年12月20日に「東松山、寄居」に七尾市の材木を荷降ろししたことになっています。業務日報では一律で材木となっていますが、実際は製材という感じの木材でした。能登木材という会社で、ベニアとあるのは林ベニアでした。

 寄居の方は関越自動車道にパーキングエリアがあったと思います。都内から来るとよく立ち寄るPAでもあったと記憶にあります。東松山は、昭和59年に鴻巣市に向かうのに、前の晩、食事をして停まった場所で、朝に森林公園の前にいたのが印象的な記憶です。

 東京都内の方から鴻巣市に向かい、その手前の東松山市で早朝まで休んでいたという記憶です。森林公園という名称自体が、昭和59年当時はとても珍しく感じられ、気になっていました。

- 埼玉県本庄市 から 埼玉県東松山市 - Google マップhttps://t.co/V5BJz6vT44

 埼玉県本庄市は深谷市と隣接した国道17号線沿いになるようです。この国道17号線も金沢市場輸送ではよく走った時期がありました。本庄市は思ったより高崎市に近く、高崎市は国道17号線と国道18号線の分岐点になり、ほとんどの場合、国道18号線で長野市に向かっていました。

 金沢市場輸送では佐野藤岡インターチェンジまで高速道路の使用が許可されることもあったという記憶です。そのうち佐野藤岡インターチェンジというのはほとんど利用しなくなったとも記憶にあります。

 よく利用したと記憶にあるのが関越道の花園インターになります。インターで降りて国道17号線に出たあたりが埼玉県熊谷市でした。領収書をもらう料金所のはずですが、不思議と花園インターの領収書というのは余り見かけませんでした。

 宇都宮や水戸方面だと、金沢市場輸送では関越道を渋川伊香保インターチェンジで降りるように言われていたのですが、前橋市まで時間も掛かり国道が混み合うので、そのうち前橋インターで降りるようになり、逆方面から乗るときは、高崎インターも使うようになりました。

 私が自分で行ったと思っていたのは、本庄市ではなく寄居町だったという可能性が出てきました。いずれにせよ、被害者安藤文さんがこだわったのは本庄市でした。他の運転手が荷降ろしで行ったという可能性もありますが、それ以上はわかりません。

 能登木材も林ベニアも行き荷は全て関東で、神奈川県だけがなかったとも思うのですが、2箇所卸が多く、どこもプレハブのようなものであったり、小さな事務所で従業員の数が少なそうでありながら、広い敷地に丸太が積まれているのが、お決まりのような卸し場所となっていました。

 ちょっと違った大きな規模に思えたのは、東京都内の木場というところの卸先ぐらいでした。会社というより個人商店という感じでしたが、いずれも敷地は広く丸太が沢山並んでいました。

 現在も少しは残っていますが、昭和の時代の宇出津の棚木というのも同じような製材所がいくつかあり、敷地に丸太が並んでいました。町内は小棚木と大棚木になります。製材所は残っていますが、丸太が並んでいるのは見ていません。

 材木もベニアも建築資材として、そのまますぐに使えるようなものでした。住宅の建築に合わせて注文があったのかと想像されますが、小口が多いという感じの仕事で、同じ卸先に行くことはなかったと思います。

《補足》
二百三十五、第十七点のA
その日の夕方彼女の退社の際、それを一階控え室にて、津幡のYTと安田敏がなにか期待を秘めて私の様子を窺っていたのです。その当日の昼頃、私は安田に、今日の夕方に彼女に声を掛けると話していたのですが、その時安田は、聞こえなかったようにして返事をしませんでした。
 そして、彼女はいつもより三十分ほど遅く五時半を過ぎて下に降りてきたのですが、私はそれまで彼女に声を掛けることを決意にしていたけれど、山下と安田の好奇の目にさらされることが気になってならず結局彼女に声を掛けなかったのです。その時彼女は、一度二階に戻りそれでも私の反応がないと見ると外で自分の軽四(6601号)のドアを音を立てて開け閉めしたりして、私が来ることを意思表示により要請していたのですが、それでも私は行動に出なかったので、彼女は車のエンジンを吹かしつけて乱暴な運転で帰って行きました。するとそれと同時に、安田と山下はおもしろい映画でも見物し終わったように無言のままやんわりと立ち上がって外に出て帰っていったのです。これは12月27日のことと思います。
二百三十六のB
そして多分この数日後、年明け数日後だと思うのですが、この時と全く同じような状況があり、その時は山下が一人、この時ほど露骨ではなく、彼女の方も控えめで、それでいて控え室の出入り口の前まできて、かがんでなにかを置いたのか拾ったような素振りを見せたことがありました。あるいはこの数日前で十二月の中頃だったのかもしれません。いずれにせよ両者とも、彼女は退社時に軽四(6601号)を会社面前に停め、そこに私が直接声を掛けることを望み求めていたものであります。この時点で安田が、彼女が私に強く働き掛けていることをはっきり認識していることを私は見て取り、以来安田の意見はまともにしないよう心掛けるようになったのです。
また、今思うに、この当時の安田と山下の私と彼女に対する見解は、他の社員同様東度の解説が強く影響されていたのかもしれません。すなわち安田の妄執は東度の言葉を媒介して発展していったものかもしれず、なにぶんにも安田の知能の程度と固執性でありますから、それらが相俟って安田は通常の人が考えられないような認識を有し、思い込んでいたことも考えられます。すなわち客観的な常識で判断するより安田の異常心理による主観によって判断した方が真実に近づけるのではあるまいかと、私は思うのです。また、この判断を誤ったことこそがそもそも事件の原因の一つであったように思うのです。(これは27日ではなく、両者とも一月上旬のことであったかもしれません。)
(ウ)さらにこの当時に当てはまる事柄として考えられるのは、私が東度の市原行きに欺かれた結果、東松山と寄居の二カ所卸しの製材を能登木材で積み、そのあと国道160号線のちょうど県境あたりの喫茶店から掛けた電話であります。その時東度は、温情を呈して彼女に私の言う住所を控え記すように申し向け彼女に電話を替わったのですが、その時も彼女は12月24日の駒寄PAからの電話と似てすまなそうになにかを分かって欲しいような哀訴を託したような様子でありました。つまり本書二百四十九の③の時とはまるで様子が違っていたのであります。また、私はこの運行も休日開けで久しぶりの関東便であったように東松山到着時の私の心の状態より印象に残っているのであります。

(2021年10月11日補足:)
 この《補足》の記載時期が不明ですが、「東松山と寄居の二カ所卸し」とあります。運行表.pdfでは、12月19日に出発した運行で21日の未明に終わった山三青果の仕事となっています。日付が変わる前に終わる仕事もありますが、朝方まで続いたと前に記述がありました。

 山三青果の仕事は大型車が2台と1台のときがあり、荷物が多いときは4トン車がプラスされることもありました。荷物の行き先は決まっていて、富山、高岡、金沢、福井の市場です。福井の荷物が極端に少ないことはあった気がしますが、全く荷物のない行き先はなかったと思います。

 大型車が1台だと、4箇所卸になりますが、福井分は中継が基本でした。大型車が2台だと行き先を分けることになりますが、3箇所と1箇所ということもありました。金沢の荷物が一番多かったと思いますが、パレットで降ろすときと、売り場に並べる時がありました。

 これは市場の仕事の基本にもなるのですが、金沢は売り場の直卸が多く、鮮魚はほぼ例外なく直卸になっていたと思います。石川丸果の野菜はパレット卸の方が多かったかもしれません。

 市場によっては、運転手が自分でフォークリフトを運転しパレットで卸し、検品だけを受けて伝票をもらうという場合もありました。秋田市の市場がそうでした。

 売り場卸だと、降ろす場所が空くのを待たされることもありましたが、売り場に荷物を並べるのは市場の荷受けの人で、トラックの荷台に積んであるローラーを使って荷物を流していました。保冷車も同じですが、ローラーは3本あり、ほぼ荷台の長さだったと思います。

 パレット卸でも荷降ろしを手伝ってくれる市場はあり、大阪の本場市場では、当時はまだ珍しかった中国人が手伝ってくれ、終わるとアサヒの缶ビールをくれと催促されたものです。

 青果物は前日の競りが終わっていればいつでも荷降ろしが出来たのですが、鮮魚の場合は22時以降の荷受けだと聞いていました。早く保冷車から出すと箱の氷が溶けるからです。これは集中して混み合う時間があることも意味したのですが、その点、青果物は気楽でした。

 駒寄PAというのが余り記憶にない名称なのですが、前に読んだ部分には、関越トンネルの近くとあったような気がします。あるいは高崎か前橋インターから乗って、最初のパーキングエリアだったのかもしれません。よく憶えていないので確認します。

- 駒寄パーキング - Google マップhttps://t.co/KrdvtJAVTX

 調べたところ、前橋インターから関越道に乗って最初のパーキングエリアでした。被害者安藤文さんとの電話でこれまで記憶が印象に残っていたのは、関越トンネルの手前のパーキングエリアでした。パーキングエリアの名称は憶えていません。

 市場急配センターで山三青果の仕事を始めた途中からだったと思いますが、明るい日中は、よく高崎インターから関越道に乗るようになったのですが、途中、ややこしい裏道のような農道を通っていました。誰かから教えてもらった道ですが、金沢市場輸送のときかもしれません。

 運転手の間で道を教えあうのはよくあることですが、特に印象的だったのが、新潟県の上越市から国道を通り、六日町インターから関越道に乗るという道でした。このあと確認しますが、十日町インターだったかもしれません。

- 国道253号 - Google マップhttps://t.co/Wo1HEWNfdv

 関越道に六日町インターがあるので、十日町インターという名称はなかったと思います。この十日町という地名は、長距離トラック運転手の仕事をする前から知っていたのですが、たぶんテレビで、日本一の豪雪地帯と聞いていました。

 Googleマップで見るとややこしいですが、上越市から六日町インターの前に出る国道で間違いはないと思います。この道のことは、平成2年に金沢市場輸送の運転手仲間の話題で、新規開拓のような道路として知ったのですが、トラックの交通量が多く、出遅れを感じました。

 市場急配センターでもこの国道253号線を何度か通行しているはず、それも積み置きで出発した運行になるはずなのですが、高速道路の領収書からその形跡は確認できていません。まだ、十分には調べていない段階ではあります。少なくとも日本酒の一升瓶の記憶がはっきりしています。

 高速道路の使用については金沢市場輸送で数々の苦い経験をし、本恒夫とのトラブルにもなっていたので、私は自発的に積み置きでの出発は、国道253号線を使っていたとも思うのですが、他の市場急配センターの運転手は道を知らなかったとも考えられます。

 国道253号線のことは被告発人東渡好信や浜上さんにも話していたはずですが、会話に噛み合わないものを感じていたかも知れません。鮮魚の仕事より、鮮魚以外の仕事の方が下道に詳しいはずで、当然に知っているものという私の思い込みがあったかもしれません。

《補足》
二百四十九の③
私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
(エ)また、私は二度目に富山県婦負郡八尾町より名鉄運輸の請負でカップヌードルのプラスチック容器を積み、茨城県取手市の日清食品の大工場(国道4号線竜ヶ崎市との境近く、来たに向かって左側沿いに所在する。)に行った時のことです。
その時、私は浜口さんと一緒に会社を出発して、関越道の越後川口SAで待ち合わせ、そこで食事をしてから一緒に現地(取手の日清工場)まで行き、歩いて500メートルほど向かいの所のコンビニエンスストアーでビールなど買って、トラックの中で会話をしながら飲んだのです。そして翌朝、一緒に荷卸しをしてから、私は古河に向かい途中谷和原(ヤワラ)インターの近くの「山田うどん」で食事をしたこと、浜口さんは国道6号線をそのまま東京方面に向かったことを、私ははっきりと覚えているのです。そしてこの時、私は浜口さんが、私と文さんとの関係を知っているとは全く考えておりませんでした。そして東度のことが話題になり、浜口さんが東度を弁護して、いいところもあるんやし大目に見てやらんか、などと言っていたのであります。このように考えると、この運行は十二月の中頃だったのかもしれません。しかし、私の全体的な感覚からすると、一月の中頃であったような気もするのです。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆これは間違いなく十二月の中頃だと思います。そして、河野と宇出津−七尾に行ったのも十二月の中頃です。H.6.11.10

(2021年10月12日補足:)
 業務日報.pdfによると、11月13日と12月12日に同じく前日に富山で積み込んだ荷物を茨城県北相馬郡で荷降ろしています。私は一度しか行った記憶がなく、それも被告発人浜口卓也と行ったときのことです。

 それまで市場急配センターで市内配達の2トン車持ち込み運転手をしていた被告発人浜口卓也が、市場急配センターの大型車に乗務するようになったのは11月の半ば過ぎのことと記憶にあります。ちょうど浜上さんのトラックで3人で七尾の市場に行った頃のことです。

 そのときの浜上さんの積み荷が和歌山県のかつらぎ農協から積んできたミカンだったと思うのですが、その時に初めて聞いた仕事のようにも思います。このかつらぎ農協の仕事も七尾市の丸一運輸の仕事でした。材木やベニアと同じで被告発人東渡好信の手土産のような仕事でした。

 このかつらぎ農協のミカンの仕事は、手積み手降ろしだったので、他の運転手が嫌がると聞き、それだけ仕事が回ってくる回数も多かったはずですが、業務日報等を見ていると、その割に回数が少ないと感じるところがあります。

 業務日報でも気になっていたのですが、「名鉄運輸」とあります。他に名鉄急配とか似たような名前の運送会社も金沢にはあったのですが、名鉄運輸とあるのは間明の川の近くにあった運送会社のことと思います。前にもご説明を記述してあるように思うので、まずそちらを調べてみます。

- 2021年10月12日10時03分の登録: twitter_log_search_”名鉄運輸”_(該当件数:8/データベース登録数:491,114) _2021-10-12_100311の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch8491114-2021-10-12100311.html

 断片的なツイートでわかりやすくなかったですが、昭和59年に金沢市場輸送の大型保冷車が名鉄運輸で九州の定期便をやっていました。昼にホームでの荷積みを手伝いに行ったことがあり、九州でいくつか荷降ろしをして最終が鹿児島だと聞いていました。

 昭和62年4月に大型車に乗務すると、トナミ運輸や日通でホーム作業の雑貨の定期便の仕事が多くなったのですが、夕方からホームで積み込みの作業を始め、出発は22時から23時というのが決まっていたので、昼にホームで積み込みをしたのはとてもめずらしいことでした。

 間明の名鉄運輸には他にも金沢市場輸送の仕事で行ったことがあったのですが、稀な仕事で回数もわずかであったように思います。金沢市場輸送でも業務日報を作成し提出していたのですが、荷主に名鉄運輸とあるのはほとんど記憶にありません。

- 北陸名鉄運輸 金沢支店 - Google マップhttps://t.co/2DfwFCukzy

 住所が金沢市間明町二丁目となっていますが、現在も昭和59年当時と同じ場所に名鉄運輸があるようです。この近くにパチンコオメガ間明店があったのですが、早くに閉店し、パチンコ店の閉店を初めて見たケースでもありました。

 パチンコオメガは、他に長田店と駅西店が記憶にあり、平成4年3月23日に、被告発人松平日出男のベンツの中で被害者安藤文さんの話をしたのが、その駅西店の駐車場でした。

 富山県婦負郡八尾町から荷物を積んだこと、一緒に金沢を出た被告発人浜口卓也と高速道路のサービスエリアで待ち合わせをしたことはよく憶えていたのですが、富山県内の有磯海サービスエリアという思い込みがありました。

 現在は違っているかもしれないですが、北陸道のサービスエリアというのは、福井県内で南条、石川県内で尼御前、富山県内で小矢部川と有磯海、新潟県内で米山サービスエリアだけであったように思います。同じ新潟県内でも越後川口サービスエリアは関越自動車道になります。

- kk2021_10/業務日報.pdf at main · hirono2016kk/kk2021_10https://t.co/PlGtgfvR2F

 GitHubでPDFファイルが表示されるのですが、ページ番号が出ていないようです。ファイルをダウンロードしてページ番号を確認します。

 上記のPDFファイルの104ページになりますが、平成3年12月11日付の日本道路公団の領収書があり、降りたのが前橋インターとなっていました。向かったのが茨城県取手市付近だとすると、花園インターで降りた可能性が高そうに考えていました。

 前橋インターに降りて茨城県取手市付近に向かったとすると、茨城県古河市で国道4号線を横切った可能性があると考えたのですが、茨城県北相馬郡の日清食品で荷降ろしした後も私は古河市の山三青果に向かっており、同じ道を通ったという記憶は余りない気がしています。

 花園インターに降りた場合だと、東北自動車道の岩槻インターの辺りで国道16号線に出て取手市に向かった可能性を考えていました。

第3章(第三点)

一月十日あがった翌日、すなわち一月十一日土曜日、昼過ぎ、私は、出社してから和田と一緒に片山津温泉の「せきや」に向かったのです。
そして宴会の後の方の途中に私は一人部屋に戻り、一時間からに時間ぐらい眠って、それから起きて中村りょう太や長山、田川のいる部屋に行ったのです。そこで雑談をしていたところ、多田が戻ってきて、大倉さんのおごりでソープランドに行って来たとか申しておりました。そして、暫く経って和田と河野さんと彼女などがその部屋に入ってきたところ、多田は自分が先ほど行ったソープランド で相手の女性より「病気じゃないのか。遊びすぎ....」とか、言われたとうれしそうに申しておりました。そして彼女が明るく冗談ぽく、自分ら(池田と二人と思われる。)の部屋に遊びに来てもよい、のようなことを申したところ、多田は狂喜して、「本当にいいが?」などと申し向けたところ、彼女は明るく「おいで」と言って、一緒に来た4,5人の連中(彼女も含めて)と部屋を出たところ、多田が一人でそのあとを追って出ていったのです。そのあと10分弱ほどして、私は一番人の集まっている大部屋に行ったのです。すると多田は面白くなさそうな顔で他の人達がしているゲームに(花札ではなかったかと思います)参加しておりました。
《補足》
この記載では彼女が多田を誘ったようになっているが、私の記憶では多田の方からそれらしい申し出のような言葉があり、それに多田が便乗したような感じだったのかもしれない。しかし、これも今となってははっきりしたことは思い出せない。ただ私がこの記載を見て意外に思ったことはたしかである。少なくとも彼女の方から積極的に誘うようなことだけはなかったはずである。また、その時大部屋では、手前の方にある座敷で麻雀をしている連中がいた。コンパニオンの仕事を経営している男もいた。今名前を思い出すことが出来ないが、松平の友人のような初老の男である。竹沢にホテル長山を紹介して代金を一部だと思うが踏み倒されたと、大倉から聞いたことのある男。安田の工事現場突入事件の時もいた。銀色のワゴン車に乗っていた。事件当日に文さんから、新しい事務員を紹介することになったなどと聞いたのもこの男のことである。
それから私は、夜中に中村と田川を誘って、一緒に外に出てラーメンを食べて来ました。 翌朝宴会場に朝食に行くと、まもなく彼女と池田が来て、彼女は私の向かいに座り池田はそれからかなり離れた中ほどの席に座って食事につきました。
《補足》
ここでは池田の座ったのは中ほどの席という事になっているが、私の現在の記憶では彼女の対極に位置する一番離れた席だったように思う。これ以降の記述でもそのように記載しているように思われるが、これもたしかなことは言えない。
また、ここまでの記載を見ると、肝心のことがいくつか抜けている。まず、大倉が初め大勝ちしていたバクチで、大負けしてから多田にソープをおごっていること、宴会の途中に私がこの時初めて彼女を睨んだこと、宴会の途中に彼女が私の方に歩いてきて思い直したように振り返って戻っていったことなどである。
それから暫くして一階のロビーのような喫茶のところで私たちは待ち合わせをして、それから午前十時頃にみんなで外に出たのです。私は、他の人達より早く和田の乗用車の助手席に来た時と同じように乗って会社に帰ったのです。
会社に着くと(高速道を利用したので30分ほどで着いた)、まもなくすぐに和田は用事があると言って帰って行きました。私は、一度、トラックに乗って中央市場に行き煙草や缶コーヒーを買って戻り、一人で一階控え室にてストーブに暖っていたのです。するとまもなく、なぜか、一部だけ開けたシャッター出入り口に彼女の姿が見えました。そして彼女はいったん中に入って来ようとしたのですが、すぐにきびすを返して外に出て行きました。そして二分ほど時間をおいて(あるいは一分)、梅野と中山さんとたしか大倉さんが入ってきたのです。そして先ほどと同じくらい時間をおいて彼女が入ってきて、すぐに電話を利用したのです。そして北野さんの名前を口にして、よく内容の理解できないことを言ってすぐに切りそして帰っていったのです。
訂正
ここでは梅野らと一緒に大倉が来たことになっているがこれは大間違いだと思います。そのほかにも不正確な表現がかなり見られます。和田の車で30分とありますが、事実は15分から20分ぐらいでした。和田は高速に乗ると常時180キロのメーターを振り切るスピードで走ってきました。市内もガラガラですぐに着いたのです。これは大きな違いではありませんが、私たちが会社に着いてから文さんらが来たのは一時間からそれ以上遅れた時間でした。その間に大倉が来たように思うのですが、とにかく一緒ではなかったはずです。大倉は普段でも中山さんなどと行動を共にすることはありませんでした。どちらかと言えば避けていたのかもしれないぐらいです。現在ではあまりはっきりしたことは言えないのですが、文さんが来た時、大倉はおらず、文さんが帰った後も梅野らがいたのは一時間ぐらいだったかもしれません。あまり長い時間ではなかったと思います。大倉が会社の前で自分の四トン車を洗車していたことは確かなのですが、それも一度姿を見せて、戻ってから始めたように思います。その間に文さんらが来たと思うのです。和田も彼女らが来る前に一度妻を連れて会社に顔を出して行きました。ちょうどこの前後に大倉がいたような覚えがあるのです。それと重要なことは梅野と中山と一緒にいた人物ですが、三人いたことはまず間違いないはずで、その一人というのが、私のほぼ正確な記憶によると、その一二ヶ月前に入社した中年の男でした。よく高そうな黒色の皮のジヤンバーを着ていた人ですが、一番の特定になるのは、前夜の宴会の時、文ちゃんに贈る歌のような前置きを述べてから「娘よ」とかいう歌を唄っていた人です。その人は会社でもちょくちょく文さんに話しかけたりしていたようでありました。名前は聞いたこともなかったのかどうかも分かりませんが、全く覚えておりません。一月の下旬の能瀬からの電話で、池田が私に「会社で眺めるだけにしときなさい。他の人らもそう言って満足しとるんやし」などと言ったとき、私が真っ先に思い浮かべたのもこの人物です。

(2021年10月12日補足:)
 「和田も彼女らが来る前に一度妻を連れて会社に顔を出して行きました。」と記載がありますが、その妻に会ったという記憶はなく、離れた場所からそれらしい姿を見たということではないかと思います。

 彼は離婚したような離婚していないような、たまに会っているというようなあいまいな説明をしていましたが、遊びに行った部屋はまるで独り者の住まいで、貧乏学生の漫画に出てくるような部屋だったのがとても印象的でした。

 浅野川の土手の下のような場所で、買い物も食事もずいぶん不便そうな場所に思えました。電車の線路がすぐちかくにありましたが、それも漫画に出てくるような風景に思えて、とにかく印象的でした。

 ストップウォッチなど使った計測ではないですが、トラックで140キロのメーターを振り切ったまま走行すると、金沢西インターから片山津インターは15分ぐらいの時間だったと記憶にあります。ほとんど一直線でカーブがなく、上り下りもほとんどない道路です。

- 片山津料金所 から 金沢西インターチェンジ - Google マップhttps://t.co/Xh2o4Sj02n

 調べてみると金沢西インターから片山津インターは33.1キロとなっていました。40キロはありそうに思っていたので意外に短い距離です。これだと普通に走行して15分ぐらいになりそうです。

 しかし、計算してみると、140キロというスピードは1時間で140キロ進むはずなので、60分を15分で割ったのが4、140を4で割ると35となりました。15分で35キロ進むという計算なので、33キロとは近いものになりそうです。

 名前が思い出せないと書いてあるのは木村さんのことだと思いますが、この片山津温泉で麻雀をしていたときの服装については言及がないようです。まるで暴力団の親分か幹部に見えたのですが、普段はあえて冴えない格好で仮の姿を見せているという、推定が裏付けられたような感じでした。

 増泉に住んでいるとも聞いていた木村さんですが、同じく増泉に住んでいて昼は喫茶店をやっていると話していた中野さんとの関係は聞いたことがありませんでした。増泉は5丁目まであって範囲も広いですが、増泉一丁目が石坂になるはずです。

 単に繁華街である片町に近く歩いて通える距離ということもあったと思いますが、増泉は暴力団関係者や水商売の女性が多い土地柄とも聞いていました。日通の増泉支店の向こう辺りになると、工場が多く、小さな工業団地のような趣もあったと思います。

- 2021年10月12日10時32分の登録: \CHO Seiho/趙誠峰 @cho_seiho\「裁判所の電気」使用禁止処分(3):特別抗告申立て : 刑事裁判を考える:高野隆@ブログhttps://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/cho-seihochoseiho3.html
- 2021年10月12日11時56分の登録: twitter_log_search_”安田敏”_(該当件数:975/データベース登録数:491,114) _2021-10-12_115646の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch975491114-2021-10.html
- 2021年10月12日11時56分の登録: twitter_log_search_”木村”_(該当件数:370/データベース登録数:491,114) _2021-10-12_115613の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch370491114-2021-10.html
- 2021年10月12日11時57分の登録: twitter_log_search_”工事現場.*突入”_(該当件数:19/データベース登録数:491,114) _2021-10-12_115732の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch19491114-2021-10.html
- 2021年10月12日11時57分の登録: twitter_log_search_”工事現場”_(該当件数:41/データベース登録数:491,114) _2021-10-12_115712の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch41491114-2021-10.html
- 2021年10月12日11時58分の登録: twitter_log_search_”市川タイヤ.*爆発”_(該当件数:3/データベース登録数:491,114) _2021-10-12_115813の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch3491114-2021-10-12115813.html

(24/370/491114) ツイート:kk_hirono ID:252598 "2014-06-26 13:14:14"

> 木村さんに関しては中野さんのことも併せて書くつもりでいました。二人とも実名にしましたが、それも私の考えぬいた上での判断です。事件の音の深いところで関わりのある人物という可能性もある一方、全くの無関係でありながら、しがらみからも影響を受ける可能性も考えられるからです。

(26/370/491114) ツイート:kk_hirono ID:252618 "2014-06-26 16:46:46"

> ただ、私自信の記憶では金沢市場輸送で木村さんが麻雀に参加している姿というのは見かけていなかった気もするのです。それもあって片山津温泉せきや、の客室で麻雀をやっている姿を見た時は、その普段とは違う服装とも相まって、かなり意外に映ったのだと思います。

 木村さんは、裏駐車場で夕方の早い時間に帰っていく姿を何度か見かけていたのですが、会社の中にいる姿を見たことは稀で、平成4年1月4日の新年顔合わせで、姿を見たような記憶が印象に残っています。

 ずいぶんポンコツの2トントラックで持ち込みの仕事をしているような話を聞いていました。それらしいトラックから出てくる姿を見かけたような記憶もあります。ただ、仕事内容については一度も話を聞いたことがなく、トラックで荷積みなどの作業をしている姿も見たことがありませんでした。

 大倉さんの方は、まえに会社の社長をしていたとも聞いていましたが、確かにそのような風格や貫禄はあったと思います。4トンの箱車で持ち込み運転手をしていましたが、荷積みなどの作業はよく見かけていました。古河の青果市場でも姿を見たかもしれません。

 長さはそれほどでもなかったと思いますが、ずいぶんと箱が大きく見える4トン車でした。私自身、中西運輸商で箱の長さが9200という大型車とわずかにしか違わない4t車に乗務していたのですが、不思議なほど大きく感じる4トン車で、塗装のなさそうな白いトラックだったと思います。

 平成15年頃になって、群馬県高崎市で事故死したと被告発人安田敏に聞いたのも大倉さんでした。国道18号線だと思いながら話を聞いていたのですが、細かい被告発人安田敏の話は記憶にありません。同じ高崎市での事故死は原田さんのことでも聞いていました。

 大倉さんとは、平成4年の1月の始めころ、市場急配センターの二階事務所でくつろぐ姿がとても印象に残っているのですが、一階の運転手の休憩室でも余り姿を見た記憶はなく、顔は出しても長居はしていなかったような気がします。

 金沢市場輸送には毎日のように麻雀に来ていたような記憶となっている大倉さんです。そもそもいつ頃から金沢市場輸送で麻雀が始まったのか思い出せないのですが、その事務所に移転したのが昭和63年の7月に入ってすぐだったと記憶にあります。

また、一部だけ開けたシャッター出入り口に彼女の姿が見えました。そして彼女はいったん中に入って来ようとしたのですが、すぐにきびすを返して外に出て行きました。そして二分ほど時間をおいて(あるいは一分)、梅野と中山さんとたしか大倉さんが入ってきたのです。そして先ほどと同じくらい時間をおいて彼女が入ってきて、すぐに電話を利用したのです、とありますが、一分や二分という短い時間ではなかったと思います。それに梅野らが来てから彼女が戻るまでの時間はもう少し長かったように思います。その時の梅野はかなり上機嫌で私の姿を見るなりすぐに話しかけ、帰るまでずっと話していたのです。他の二人も愉快そうにしておりました。彼女と一緒に車に乗ってきたことがよほどうれしかったのかもしれません。しかし、私は直接一緒に来たとは聞いていないのです。彼女の車が会社になかったこと、ふいに出ていったまま戻らなかったことなどここでは記述されていませんが、度々述べてきているはずです。彼女がどうやって帰ったのか私は不思議でなりませんでした。彼女が来るまで私はてっきり池田について松平らと一緒に三国ボートレースに行ったものとばかり考えていたのです。これは温泉を出てから後で聞いた話ですが、ほとんどの者が皆で三国ボートレースに行った、と聞いていたからです。温泉を出る前にそのような予定は耳にしていなかったので、やはりこれは大倉から直接聞いたことです。大倉からその話を聞いたこと自体ははっきり覚えているので、やはりこれは彼女らが来る前に大倉が戻ってきていたことの証左となりそうです。私は午前中一杯か正午過ぎくらいまで会社にいたはずです。これは先に指示を受けていたトナミ航空での荷積みの開始時間に合わせて時間をつぶしていたものです。ずっと会社にいたことはなかったかもしれませんが、自宅に戻るようなことはなかったと思います。予定の時間より早く出て食事をしてから向かったように思います。
それから私は問屋町のトナミ航空に行って、前から指示を受けていた池袋行きの展示会の荷物を積み込み、午後四時半か五時頃に会社に戻ったのです。するとそれに前後して松平やカベヤなど4,5人が帰ってきました。これは確か片山津でチェックアウト後かなりの社員が一緒に三国ボートレース場に行くと言っていたのでその帰りではなかったかと思います。初め私は彼女も池田と一緒に行ったものと思っていたのです。なぜならまず彼女の乗用車が会社に停めてなかったからであります。
《補足》
ここでも片山津で三国ボートレスに行く話を聞いたことになっている。あるいは実際にそうであったのかもしれないが、具体的に話を聞いたのはやはり大倉からである。いずれにせよそれほど重要な問題ではない。彼女が大倉と一緒であったか否かは彼女本人が覚えているはずであるから。
それから私は午後六時近くになって池袋に向け会社を出発しました。そして七時過ぎ頃、私は、北陸道朝日インターの手前にある入善PAに入ってそこから彼女の自宅に電話を、新年になって初めて掛けたのです。彼女が直接出ました。これは前年の十一月二十八日の夜の伊吹PAからの電話以来のことでした。この時も彼女の態度は硬いもので、まもなくちょっと待ってと言った後、友達来たし、などと言って会話を拒み、私は今度会ってくれるように頼んだのですが、彼女は返事をせず、さらに、会っても無駄のようなことを言い、前みたいに会社で会ってちょこちょこっと話す、そんなんでいいんじゃないがぁ、などと言ったので、私は、そんでいいんならいいし、話する気持ちないちゅうんやったらそれでおれも納得いくし、ほんでいいんやね、などと申し向けると、彼女は困ったように悲しそうに黙ってしまったので、私は「おれ文ちゃんのこと好きやし、なんでもあんたのいいようにしてあげるし、とにかく会うだけ会ってもらえんけ」と言ったところ、彼女の態度は一変に柔らかくなったのですが、私は彼女の気持ちと立場が理解できず、あまりしっこくするのはかえってよくないと思い。彼女に考えておいてと言うことで話を終えたのです。 それから私が目的地である池袋駅前に着いたのは夜中の十二時頃だったと思います。
そして翌日の昼の12時頃、私は荷物を降ろし終わって古河に向かうところ、池袋の駅前の通りにトラックを停め会社に電話を掛け、その時対応に出た彼女に「あの、おれやっぱりあきらめんし」などと申し向けたのです。彼女は無言のままでしたが、満足そうな感じで、暫く間をおいて誰から替わるかと尋ね、私は確か松平に替わってもらったように思います。

(2021年10月12日補足:)
 「彼女が大倉と一緒であったか否かは彼女本人が覚えているはずであるから。」という補足説明に引っかかりを覚えました。私と和田君が片山津温泉から戻ってから早い時間に大倉さんは洗車を始めていた記憶があります。先に洗車をしていた可能性もありそうに思えるぐらいです。

 慰安会に参加した多数が三国ボートレースに行くという話は、「せきや」の1階の待合室のようなところで聞いていたと思います。チェックアウトというのか、そこで集まって一斉に解散したような格好でしたが、けっこうな時間、そこで待たされたという記憶もあります。

 なぜだか気持ちが落ち着いた待ち時間ではなく、実際より長く感じたと記憶にあるのですが、集合に不思議と時間が掛かっていました。全員集合というわけでもなかったような気がしますが、被告発人松平日出男が音頭を取って解散したような感じだったと思います。

 和田君は北陸自動車道で180キロのメーターを振り切ったまま走行するというあり得ないスピードで市場急配センターに帰ったのですが、同じ時間に「せきや」を出ていれば、ありえない時間に大倉さんは市場急配センターにいたと思います。

 黙々と洗車をしていましたが、気分は良さそうではなく、麻雀でずいぶん大負けしたという話がありました。これは余り記憶になかったのですが、夜のうちに聞いていたと思います。被告発人多田敏明がソープランドに連れて行ってもらったと喜んでいた話はよく憶えていました。

 しかし、被告発人多田敏明のソープランドが大倉さんのおごりだったとはいつの間にか忘れていました。大倉さんが麻雀で負けたという金額も聞いていたはずで、今となっては正確には思い出せないですが、10万円か20万円、たぶん20万円と聞いていたように思います。

 ここでは平成4年1月12日日曜日、被害者安藤文さんが市場急配センターの1階から掛けた電話の内容が具体的記述となっていないのですが、電話の相手が女友達であることを私にしっかり確認させるような演出があったように思います。

 その平成4年1月12日日曜日、市場急配センターに被害者安藤文さんの車がなかったことも記憶にはなかったですが、女友達の北野さんが迎えに来た可能性は高く、迎えを頼む会話はなかったと思うのですが、予め迎えの合図のような段取りがあったものと考えられます。

 「そして翌日の昼の12時頃、私は荷物を降ろし終わって古河に向かうところ、池袋の駅前の通りにトラックを停め会社に電話を掛け」という部分も気になるところで、昼の12時というのはずいぶんと遅い時間になっています。

 同じトナミ航空の展示会の仕事は金沢市場輸送でも数多くやっていましたが、荷物を持っていくときは朝の早い時間が多かったと思います。デパートの開店時間は通常10時なので、それまでに準備をしているのだと考えていました。

 トナミ航空の展示会の仕事は、引きあげもあったのですが、引きあげの場合は、ほぼ例外なくデパートの閉店後で21時や22時という時間になっていたように思います。トラックに荷物を積み込むのは最終段階なので、閉店後に片付けをしてそんな時間になっていたのでしょう。

 考えてみると、トナミ航空で日曜日に荷積みをしたというのも珍しかったと思うのですが、翌日の月曜日は三越池袋店の休日であったのかもしれません。古河に向けて三越池袋店を出て、会社に電話をしたときの状況は鮮明に記憶にあるのですが、荷降ろしの様子が記憶にありません。

 三越池袋店には、その後の引きあげにも行っているのですが、その時の様子はまだ記憶にあり、金沢市場輸送の寺川さんが大型保冷車に乗務していました。言葉を交わした記憶はないですが、姿を見たのも久しぶりだったと思います。

 業務日報.pdfでは、139ページに運行指示票があり、平成4年1月17日付ですが、その日に丸一運輸で七尾から山梨となっていて、19日に三越池袋店で引きあげの荷物を積み、20日に金沢東インターで降りた領収書があります。

 今気がついたのですが、業務日報.pdfの142ページに、甲府での給油所の領収書があります。私と思われる手書きのサインがあり、3068という車番は店の人が手書きで書き込んだ形跡となっています。920118とあるのは、平成4年1月18日を意味するのでしょう。

 私の記憶とこれまでの記述では、1月19日の日曜日は、市場急配センターで被告発人多田敏明との待ち合わせで、一緒に名古屋方面に出発することになっていて、彼が友人一人を連れて、昨夜ケンカで怪我をしたと言い出し、被告発人安田敏に電話で代走を頼んだことになっているはずです。

 結局どうなったのか現在の記憶にはないですが、被告発人安田敏は代走などとんでもない話だと断っていました。被告発人多田敏明がそのまま出発した記憶はないのですが、被告発人安田敏と一緒に出発したという記憶もありません。

 そもそも前日に被告発人多田敏明と一緒に運行に出発するという約束をしたことが他になかったはずです。その前の夜というのは、19時ぐらいになるのかすっかり暗くなった時間に、被告発人多田敏明と二人で市川タイヤの向かいの焼肉店に入り食事をしました。これもよく憶えています。

 金沢市場輸送でもトナミ航空の展示会の行きの仕事と引きあげの仕事が一緒になったことは2度ほどあったように思うのですが、それもどこのデパートだったのか記憶にはないものの、だいたい5日から一週間程度の間であったという記憶です。

 私は、この三越池袋店の引きあげの仕事を、1月の終わりにやった仕事だと思っていたのですが、1月13日から月末までの展示会の開催というのは前例がなく長過ぎるようには思っていました。展示会というよりは物産展になるかと思います。

 金沢市場輸送の運転手の間では「展示会」と呼んでいたような記憶なのですが、これまでも「物産展」と記述したことは少なかったかもしれません。

- 2021年10月12日17時54分の登録: \ystk @lawkus\Dappiアカウントの投稿が発信されていたインターネット回線の契約者が法人だというだけでは決め手を欠くと思っていたが、従業員15名ほどの小さなhttps://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/ystklawkusdappi15.html
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- 2021年10月12日19時51分の登録: \モトケン @motoken_tw\、Aの疑問点についての質問とそれに対するBの誠実な回答が対話を成り立たせるんですよ。あなたは対話というものをしたことがないのか?https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/motokentwab.html
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- 2021年10月12日20時57分の登録: REGEXP:”高野隆”/データベース登録済みツイートの検索:2021-10-08〜2021-10-12/2021年10月12日20時54分の記録:ユーザ・投稿:90/120件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2021-10-082021-10.html
- 2021年10月12日21時09分の登録: twitter_log_search_”トナミ航空”_(該当件数:29/データベース登録数:491,287) _2021-10-12_210956の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch29491287-2021-10.html
- 2021年10月12日21時09分の登録: twitter_log_search_”物産展”_(該当件数:33/データベース登録数:491,287) _2021-10-12_210932の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch33491287-2021-10.html
- 2021年10月12日21時09分の登録: twitter_log_search_”展示会”_(該当件数:82/データベース登録数:491,287) _2021-10-12_210913の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch82491287-2021-10.html

 他にあったような気がしないではないのですが、市場急配センターでトナミ航空の物産展の仕事をしたのは、この三越池袋店だけだったように思います。

 その物産展の引きあげの荷物を午前中に問屋町のトナミ航空で荷降ろしした後のことも強く印象に残っています。ちょうど会社に戻ったタイミングで、被告発人松平日出男がやさしく、「今日はあがりやし、ゆっくりストーブの番でもしとれや」などと言ってい出掛けていきました。

 はっきりした状況は現在思い出せないですが、2階に上がると事務所は被害者安藤文さん一人でした。けっこう長い時間があったと思うのですが、台所の方からようやく被害者安藤文さんに声を掛けようとしたタイミングで、被告発人多田敏明と和田君が事務所に入ってきました。

 今考えると、監視カメラでも設置して見は計らったのかと思えるようなタイミングでした。大きな音か声で階段を登ってきたのですぐにわかったのですが、事務所に入ってすぐ、被告発人多田敏明は船凍イカの積替えを手伝ってきた、と言い。とてもうれしそうに「チャンペの匂いがする」と続けました。

 視線の先に被害者安藤文さんが苦笑いする姿があったのですが、被告発人多田敏明は実際に手の匂いを嗅ぐ素振りまでしていたと記憶にあります。チャンペというのは石川県の方言で、女性器と性行為を同時に意味する言葉で、被告発人多田敏明の大好物でした。

 また、山梨行きの丸一運輸の仕事は、倉庫移動ということで行った北陸ハイミールで急遽指示を受け、そのまま七尾市に向かったという記憶で、津幡町の太陽鉱油で給油をしてから津幡町の能瀬という地名がある場所から市場急配センターの会社に電話をしたという記憶です。

 市場急配センターの会社以外の場所で、すぐに動くような次の運行の指示を受けたことは他になかったと思います。能瀬から電話を掛けたのも午前中だったように思うのですが、午前中に七尾市に荷積みに向かったことは他になかったはずです。

 午前中のことのように記憶にはあるのですが、現在、アル・プラザ鹿島店がある辺りから会社に電話を掛け被告発人池田宏美と話したこと、夕方の17時を過ぎてから呉羽パーキングエリアから会社に電話を掛け被告発人池田宏美と話したことは鮮明な記憶で、時間の逆算をすると午後だった可能性があります。

 午前中のことのように記憶にはあるのですが、現在、アル・プラザ鹿島店がある辺りから会社に電話を掛け被告発人池田宏美と話したこと、夕方の17時を過ぎてから呉羽パーキングエリアから会社に電話を掛け被告発人池田宏美と話したことは鮮明な記憶で、時間の逆算をすると午後だった可能性があります。

 七尾市に向かう間に時間を潰したという記憶もなく、能登木材や林ベニアで長い時間、待機させられたという記憶もなく、行けばすぐに荷積みが出来たという記憶しかありません。

- 2021年10月12日21時17分の登録: twitter_log_search_”船凍イカ”_(該当件数:36/データベース登録数:491,287) _2021-10-12_211709の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch36491287-2021-10.html

- 2021年10月12日21時48分の登録: twitter_log_search_”能瀬”_(該当件数:22/データベース登録数:491,287) _2021-10-12_214847の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch22491287-2021-10.html

(11/36/491287) ツイート:kk_hirono ID:266375 "2015-08-13 01:40:40"

> 船凍イカの積み替えを手伝ってきたという話でした。市場急配センターの仕事とは考えにくいので、金沢市場輸送の仕事と思われました。さらに可能性が高いと思われたのは、金沢市場輸送が輪島屋鮮冷から頼まれた中継の仕事ということです。

 とても印象的な事実でずっと記憶に残っていたのですが、それらしい言及と確認できたのは上記のツイート1件だけでした。これは「チャンペ」でもまとめ記事を作成する必要があります。「ちゃんぺ」とひらがなにしたものもあるかもしれません。

- 2021年10月12日21時56分の登録: twitter_log_search_”(チャンペ|ちゃんぺ)”_(該当件数:83/データベース登録数:491,287) _2021-10-12_215616の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch83491287-2021-10.html

(7/83/491287) ツイート:kk_hirono ID:266374 "2015-08-13 01:38:38"

> この「ちゃんぺ」という方言は、使う人は頻繁に連呼するという特徴がありました。その一人が被告訴人多田敏明でした。1月の終わり頃には、和田君と二人、私と被害者AAさんが二人でいた2階事務所に入ってきて、「チャンペの匂いがする」と喜んでいました。

 より具体的で特定性の高い内容でしたが、「”(チャンペ|ちゃんぺ)”_(該当件数:83/データベース登録数:491,287) 」でもそれらしい該当は1件だけでした。

 山梨県甲府市で給油をしたことは全く記憶になかったのですが、国道20号線沿いには間違いなさそうです。ただ、甲府市内というのは中央自動車道のインターから離れていたはずで、どこから高速に乗ったのかも気になるところです。大月インターは過去に利用した記憶がありそうです。

- 甲府昭和IC - Google マップhttps://t.co/SU1t07vaSY

 調べてみると、甲府昭和インターがあって見覚えのある名称ですが、国道20号線から直接乗り降りが出来るようです。中央自動車道から甲府市内の景色を見たという記憶もないのですが、前にも書いた通り、山梨県内での荷降ろしは、平成4年1月に一度だけだったと思います。

 金沢市場輸送では、中央自動車道で高速道路の使用許可が出た場合、諏訪南インターチェンジの乗り降りが基本となっていましたが、大月インターというのも過去に利用した記憶が残っています。

(1/22/491287) ツイート:kk_hirono ID:265559 "2015-08-04 13:49:49"

> まだ午前中だったと思いますが、津幡の太陽鉱油で給油をし、そのまま国道で七尾市に向かいました。津幡町能瀬という地名の看板が出ていましたが、その辺りから会社に電話を掛け、被害者AAさんと少し話をしました。

(10/22/491287) ツイート:kk_hirono ID:348404 "2020-05-31 17:08:08"

> 山梨に向かうときも被害者安藤文さんとの間でひと悶着があったような気がします。今の記憶では特定しきれず,あるいは違っているかもしれないのですが,津幡町の能瀬から掛けた電話に被告発人梅野博之が出たこと,夕方暗くなって呉羽パーキングから掛けた電話に被告発人池田宏美が出たときです。

 なぜか曖昧な記憶のように書いてありますが、私が田舎者なので文ちゃんの気持ちがわからない、これ以上関わっていたら傷つけてしまいそう、などと言った時、「あん、あん、あん」などと怒りを表現し詰め寄るような態度を示したのが強く印象的でずっと記憶に残っていました。

(13/22/491287) ツイート:kk_hirono ID:363969 "2020-09-13 18:32:32"

> 近くに能瀬という地名の標識か看板がありました。ずいぶん古い繊維工場の跡地のような印象が残っているのですが,そこにある小型の電話機をアクリル板で囲っただけのような電話ボックスから会社に電話を掛けたと記憶にあります。

 そこまで具体的な記憶は消えていましたが、確かに不思議な感じのする電話ボックスで、繊維工場の廃墟になっていたかもしれません。テレビの世にも奇妙な物語に出てきそうな雰囲気がありました。

 繊維工場で思い出すのは、現在の中能登町ですが、その辺りは「織姫の里」になっていると近年知りました。最初はテレビだったかもしれないですが、ネットで情報は見ています。

- 道の駅-織姫の里なかのと - 北陸「道の駅」https://t.co/HmcJxzE1xy 中能登町は能登半島のほぼ中央に位置し、緑豊かな里山・田園風景が広がり、近隣には「石動山」をはじめ「雨の宮古墳群」など、地域の歴史文化を今に伝える史跡が多く存在します。

 能登半島のほぼ中央というのは、かなり違和感を覚えたのですが、宝達志水町以北が能登半島だとすると、先端まで3分の1もないような気がします。富山県の高岡市の一部も能登半島になるので、そちらから見れば、また違ったような気もします。

 その現在の中能登町の辺りに、反物のような荷物を運んだのは昭和60年で、中西運輸商の4t車での仕事でした。強く印象に残った工場でしたが、それは昭和58年の勝山市の繊維工場も同じでした。

- (28) 織姫は石川にいた!七夕に中能登町の織姫伝説を調査 - YouTubehttps://t.co/wfWrjVpkIY 429 回視聴2021/07/07

 動画の視聴を終えたところですが、前にも中能登町の織姫の由来を調べたが情報が見つからず、今回も見つからなかったのですが、上記のテレビ番組の動画の中に答えがあり、雨の宮古墳群というのも初めて知ったと思ったのですが、能登比咩神社というのも初めて知ったように思います。

- 2021年10月12日23時17分の登録: twitter_log_search_”(雨の宮古墳群|能登比咩神社)”_(該当件数:2/データベース登録数:491,350) _2021-10-12_231706の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch2491350-2021-10-12231706.html

 予想外の結果ですが、能登比咩神社で2件の該当を確認し、もう一つのキーワードを加えてまとめ記事を作成しました。

(1/2/491350) ツイート:hirono_hideki ID:127602 "2018-05-05 18:12:12"

> 能登比咩神社(鹿島郡中能登町能登部下125甲29) - 石川県神社庁 http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j1429/

(2/2/491350) ツイート:kk_hirono ID:299875 "2018-05-06 20:18:18"

> 気をつけるのはファイル名の文字列の長さと、ファイル名には使えない特殊文字の扱いです。そういえば昨日の夕方、テレビで見た「能登比咩神社」の「咩」の漢字が表示できないという情報を見ました。

 中能登町の辺りの神社をテレビのローカル番組でみた記憶はあるのですが、能登比咩神社という記憶はなく、他に調べた形跡がないのも我ながらに不思議なことです。

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> 漁師の「父ちゃんは強い」と励ます太鼓 能登・小木とも旗祭りで14歳初披露(北國新聞社) - Yahoo!ニュース https://t.co/XI7aqcbmWR

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> 生活保護、やまぬ減額に受給者悲鳴 1日2食、貯蓄は月千円(福井新聞ONLINE) - Yahoo!ニュース https://t.co/hxPB46LLY0

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> 福井弁護士会で人権擁護委員会貧困対策部会長を務める堺啓輔弁護士は「生活保護基準未満の世帯で生活保護を利用しているのは1~2割程度」と述べ、本来なら受給できる低所得世帯まで10%に含まれていると指摘。 https://t.co/hxPB46LLY0

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> 生活保護費の引き下げは04年から続いている。福井弁護士会によると、13年の生活扶助基準見直しでは平均6・5%、最大10%の引き下げがあり、国は予算を670億円カットした。今回も160億円を削減すると決まっている。 https://t.co/KfQJlBd9V4

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> 深澤諭史さんのツイート: "なんか勘違い・混同があるようですが,①弁護士に対する懲戒請求が不法行為になる場合と,②民事訴訟の訴え提起が不法行為になる場合,以上①と②の範囲は大きく異なります。 ①の方が相当(あるいは極めて,といっていいか https://t.co/e9aOJ0N1yS

- 奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)/2018年05月05日 - Twiloghttps://t.co/dLDxvJrJXl

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> 高森浩弁護士(富山)、退会命令から業務停止2年に変更 /富山 ( 事件 ) - 弁護士自治を考える会 - Yahoo!ブログ https://t.co/5kLXfWEY2K

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> 刑事事件の弁護活動で被害者側に何度も示談を迫ったとして、2013年に県弁護士会から退会命令の懲戒処分を受けた高森浩弁護士について、日本弁護士連合会は先月26日付で、処分をより軽い業務停止2年間の懲戒処分に変更した。 https://t.co/5kLXfWEY2K

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> あ、そうか。ハッシュタグが #不当懲戒 だからいろいろ言う人が出てるのか。 #不当懲戒請求 にすればよかったか。今後はそうしよう。

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> いい機会なんで一般の人達への情報提供。 ・弁護士に対する懲戒請求は誰でもできるが、濫用的懲戒請求の場合、損害賠償義務を負う ・その額は1件あたり数十万〜百万円ほど ・訴訟に必要な住所氏名は、あなたが記載した懲戒請求書から相手の弁護士に伝わる ・相手は裁判をお気軽にやってくる弁護士

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> テレビのケンミンショーに、キンキ。船から釣り上げられ生きている姿も見た。

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> 懲戒請求4万件超:インターネットに文書のひな型掲載 - 毎日新聞 https://t.co/ZXs77Yet6T

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> おもてなし北陸−北陸スペシャル− 春の海を満喫!七尾湾・ローカル線の旅 2018年5月5日(土) 10時55分~11時20分 の放送内容 https://t.co/kqBwjEU24H

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> ドキュメント72時間「街角の法律相談所」 2018年5月5日(土) 11時25分~11時50分 の放送内容 https://t.co/3AAWUPOrCZ

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> いしかわの海【のとじま水族館がリニューアル! 美しい「のと海遊回廊」を徹底紹介】 2018年5月5日(土) 11時45分~11時50分 の放送内容 https://t.co/Kodl1h68yH

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> 南西に望めば、田畝茫々として湖水湛えたり、此の辺の山を能登の中山と云い、此の山上の端一宮垂跡の地也。 巫女原と云い山を巫女山と云う。 古来より山燈有りて毎夜一宮へ飛来す。 https://t.co/HBfKkMxJOA

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> 女原老人憩の家(旧:女原温泉ふるさとセンター)|疲れも吹き飛ぶ 石川県の日帰り温泉ガイド|自然人ネット https://t.co/a2YMYqiJK9 石川県白山市女原ホ60

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> 奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語(@hirono_hideki)/「女原」の検索結果 - Twilog https://t.co/0Ral6Q0GSg

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> 石川県中能登町の能登比?神社の春祭りではおよそ400 年の歴史があるという奉納神事舞「三番叟」が披露される。 https://t.co/84V3IGAT5y

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> 中能登町・ 能登比(ひめ)神社春祭りで「三番叟」奉納される - とし坊のお祭り三昧 https://t.co/gXfuapX9BD

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> (能登比咩神)太古大己貴命、少彦名命と共に天下を経営し越の八国を平け給う時此の地に至り国津神を求め給う、爰に機織乙女あり、命機殿に来たり御飯を語り給いければ乙女は稗粥と、どぶろくを進む、命甚く愛で生して永く吾苗裔と爲さむと宜り給う。 https://t.co/JAdsOTRr1S

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> 此の乙女名を能登比咩神と稱へ奉る機棹を海中に投げ給いしに島が出来この島名は能登比咩織島又名は機貝島と云う。羽咋郡富来沖にあり。 https://t.co/JAdsOTRr1S

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> 奉納\危険生物・弁護士脳汚染除去装置\金沢地方検察庁御中: REGEXP:”島根”/小倉秀夫(@Hideo_Ogura)の検索(2010-07-11〜2018-04-21/2018年05月05日19時54分の記録27件) https://t.co/tzuDrTn5f5

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> ジャニーズ事務所、山口達也事件被害者などへの取材自粛要請 被害者の保護者から「最大の配慮を」(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース https://t.co/noKvXuc5Kn 被害者側だけでなく、山口の家族、離婚した夫人などへの取材もあることから

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> 弁護士が金持ちの味方だ、っていう人いるけど、そうかも知れないな。 積極的に弁護士に話を聞きに行く人は比較的裕福な人たちが多いし、弁護士に話を聞きに行くから結果的に損を見なくて済むので金持ち的ポジションは安泰だし。金持ちの味方なんじゃなくて、クライアントの味方なだけなのにね。

 追加で19件のリツイートとなりました。「能登比?神社」と「能登比(ひめ)神社春祭りで「三番叟」奉納される」という2つのツイートで文字化けがありましたが、「能登比咩神」というツイートが2つあって、神社になっていないのも気になりました。

 今夜まで織姫が七夕伝説ということも記憶というか認識になかったのですが、これも意外な発見に思えました。

 石川県には白山比咩神社と奥津比咩神社があり、奥津姫神社とも書くことは知っていて、女性の神様を祀る神社という知識はありました。能登の地名を含む「能登比咩神社」について、なぜもっと調べなかったのが不思議で、同じ日になっている女原という地名を調べたことは記憶にありました。

- 能登比咩神社 - Google マップhttps://t.co/oKslwhIv2B

 今回初めてになると思いますが、Googleマップで能登比咩神社の場所を調べてみました。JRの能登部駅のすぐ近くですが、アル・プラザ鹿島店に近いのは驚きです。能登部は鹿西町だったという情報も見かけていたのですが、次の良川駅の方が鹿島町の中心とも思っていたアル・プラザ鹿島店に近いようです。

 良川駅というのは余り印象にも記憶にもないですが、七尾市内に向かって次の駅が能登二宮となっています。確認するとその次の駅が徳田駅ですが、宇出津からだと七尾駅を出て次の最初の駅が徳田駅だったとずっと記憶に残っていました。能登二宮駅も七尾市内になりそうです。

- 能登二宮駅 - Google マップhttps://t.co/6FK7rvOrxw 〒929-1802 石川県鹿島郡中能登町武部は

 念の為というつもりで確認すると、能登二宮駅は七尾市内ではなく、中能登町となっていました。今更になりますが、中能登町は鹿島郡になるようです。

- アル・プラザ 鹿島 - Google マップhttps://t.co/jMC4vbIM65 〒929-1721 石川県鹿島郡中能登町井田と 部1番地1 部1−1

 気になって調べてみると、アル・プラザ鹿島店の住所も中能登町鹿島とはなっておらず、もともと鹿島郡の中心部がその辺りだったという気がします。しかし、中能登町の役場は別の場所で、旧鳥屋町となっていたかと思います。平成11年に役場の新築工事に行ったということもありました。

 その旧鳥屋町は、小林運送の長距離助手をしていた頃、「流転」という昔の曲を知った通勤の運転手がいたことも前に記述をしていると思います。

- 天日陰比咩神社https://t.co/JqCtIcukmB 天日陰比咩神社あめひかげひめじんじゃ(二宮神社)は第十代崇神天皇の御代に御鎮座の官幣社で二千有余年の歴史をもつ延喜式内社で能登國二ノ宮であります。

 「能登二宮 神社」とGoogleで検索したのですが、アル・プラザ鹿島店の近く、能登比咩神社とは国道の反対側にある神社でした。私が探していたのは七尾市内の別の神社になり、ネットで情報を見かけて気になり、青柏祭の前にバイクで向かった神社でした。

- 能登生国玉比古神社(氣多本宮) - Google マップhttps://t.co/A6aXP77NyD

 思い違いをしていたようですが、気多本宮とあり、羽咋市の氣多大社が能登一宮となっているはずです。

 羽咋市から中能登町は、富山県側に山があって、広い平野になっているのですが、石川県でも特に落雷が多いところと聞いていました。石川県というか能登は、冬場の雷が日本一多いという情報もネットで調べて見かけています。ただ、近年は最も多い12月でも少なくなっている気はします。

 雨不足の心配から天日陰比咩神社の信仰に繋がったという話は先程のテレビの動画でも見ていましたが、思い出すのは日照りの雨不足ではなく、長雨と娘の生贄というテーマの小倉秀夫弁護士のツイートです。

- 2019年03月09日02時59分の登録: %@Hideo_Ogura 小倉秀夫%「長雨が続きすぎだ。このままでは農作物がダメになってしまう。そうだ!若い娘たちを人柱にして神様の怒りを解こう!」「人柱なんてとんでもhttp://hirono2014sk.blogspot.com/2019/03/hideoogura.html
- 2019年05月03日01時20分の登録: REGEXP:”長雨”/小倉秀夫(@Hideo_Ogura)の検索(2013-05-09〜2013-05-09/2019年05月03日01時20分の記録1件)http://hirono2014sk.blogspot.com/2019/05/regexphideoogura2013-05-092013-05.html

>>> TwitterAPIによるデータ取得日時: 2019/03/09 02:59:39 >>>
%投稿者:Hideo_Ogura(小倉秀夫)%
%投稿日時:2013/05/09 01:48%
%ツイートのURL:% https://twitter.com/Hideo_Ogura/status/332175121294958592
%ツイートの内容%
「長雨が続きすぎだ。このままでは農作物がダメになってしまう。そうだ!若い娘たちを人柱にして神様の怒りを解こう!」「人柱なんてとんでもない。第一そんなことしたって長雨が収まる保障なんてあるまい」「なら、お前、対案だせよ。出せないんなら、お前のところの18歳になる娘、人柱にするぞ」
% 

 前の小倉秀夫弁護士のTwitterアカウントですが、「凍結されたアカウントによるツイートです。」となっており、TwitterAPIでのツイートの取得も出来なくなっています。2013年5月9日のツイートだったことは確認できましたが、すぐに生涯忘れないだろうと思う内容のツイートでした。

 アル・プラザ鹿島店は、前の駐車場に車を駐車したことは何度かあり、隣にクアトロブームというパチンコ店や北國銀行もあったのですが、店内に入ったかどうかは記憶にない、いささか不思議な場所ともなっています。

- 2021年10月13日00時44分の登録: ツイートの記録資料:\法務検察・石川県警察宛\/深澤諭史(@fukazawas)/”2021年10月12日”:23件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/fukazawas2021101223.html
- 2021年10月13日00時44分の登録: ツイートの記録資料:\法務検察・石川県警察宛\/小倉秀夫(@chosakukenho)/”2021年10月12日”:21件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/chosakukenho2021101221.html
- 2021年10月13日00時44分の登録: ツイートの記録資料:\法務検察・石川県警察宛\/モトケン(@motoken_tw)/”2021年10月12日”:33件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/motokentw2021101233.html
- 2021年10月13日00時45分の登録: 2021-10-12の投稿一覧\検察・石川県警察宛記録資料\奉納\危険生物・弁護士脳汚染除去装置\金沢地方検察庁御中:37件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/2021-10-1237.html
- 2021年10月13日00時46分の登録: twitter_log_search_”長雨が続き”_(該当件数:37/データベース登録数:491,386) _2021-10-13_004629の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch37491386-2021-10.html
- 2021年10月13日00時48分の登録: twitter_log_search_”小倉秀夫”_(該当件数:9,876/データベース登録数:491,386) _2021-10-13_004719の記録https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/twitterlogsearch9876491386-2021-10.html

 ここ数日、小倉秀夫弁護士のTwitterアカウントのタイムラインをまともに見ていなかったように思ったのですが、そのタイムラインを少し遡ると次の小倉秀夫弁護士らしいツイートがありました。女性の災難にも関わりがありそうで、神社的です。

> まさに、女性専用車両など、日本における男性差別に見られる要素ですね。 https://t.co/CCPdPWUAat

〉〉〉 kk_hironoのリツイート 〉〉〉

> だいたい、ある属性にある人を「怖い」ということ自体が差別ですよね。判断の基準に個人より属性を優先させる、これが差別の起点です。 https://t.co/FoFMzcUcDd

 意外に思ったのですが告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁・石川県警察御中(@kk_hirono)のアカウントでリツイートが出来ました。ブロックされていなかったことになるのか不明ですが、鉄板でブロックされているイメージがありました。

 京都の上瀧浩子弁護士ですが、石川県金沢市の出身で成人に近いというか大きくなるまで金沢で生活をしていた内容のツイートが散見されました。確認をかねてTwitter検索で調べたとも思います。

第4章(第四点)「河野さんと宇出津・七尾に行った日」

その日、私は昼過ぎに、中央市場にて、仲買よりミカンなどを積んで宇出津のAコープ能都店と七尾の公設市場に河野さんと一緒に私のトラックで行って来ました。
私はこの日を一月中だと思い。そうすると14日の火曜日が考えられるのですが、あるいは全然違って、これは平成三年の十二月中だったのかもしれません。
私は上申書の中でも一月中として記述し、感覚的には今も一月中頃で、その翌日に安田のアパートに遊びに行ったことはまず間違いなかったと思っているのです。
問題点 H9.3/6
1/5 ここで一つポイントとなるのは、私は十二月中か一月中に一度昼頃(午前中か午後か分からない)、文さんの件につき安田の教示を賜りたいと藁にすがる思いで安田の機嫌をとるため、寺町と平和町の境あたり野田専光寺線野田に向かって右側にある洋菓子屋で三千円分ほどケーキを買っていったのです。 また私はその数日前(半月くらい)の休日の時にもケーキを買って大網君の家に持って行ったことがあります。(これは12月22日かもしれない)間違いなし
そして、私の思いによると、安田宅にケーキを持参したのと古河便に付き合ったのとは一致しないのであります。
また、河野さんと宇出津七尾に行ったのは一月二十二日以前であることは確実です。なぜなら、その一月二十二日をもって私と彼女の関係は只事ならぬものとして会社全体に認識されたのに対し、当日七尾から帰るとき河野さんが、この前問屋町の近くのレンタルビデオで彼女に会ったところ、彼女はその時、近くの問屋町内の友人宅に遊びに来ていると、言っていたと、河野さんが何気なく話し、私の何気なく聞いていたからであります。
また、私が一月中でなかったかもしれないと思うのは、まず、その問屋町の話と前後して河野さんは、自分の一人娘のことをよく話していたのですが、その時点で私の娘さんに対する印象は薄かったのです。よって、一月四日の日に私は初めて河野さんの自宅に行きそこで初めて河野さんの娘さんを実際に見たのですが、かなりそれ以前に感じていたイメージとは違っておとなしそうな娘で中学生ぐらいに見えたほどだったのです。河野さんの話によると、十九歳か十八歳とのことで、性格のきついところがあることを実例を挙げて話しておられたのです。つまり、私が河野さんと一緒に七尾に行ったのは一月四日以前であったように考えられるのであります。

(2021年10月13日補足:)

〈〈〈 2021/10/13 02:10:25 Linux Emacs: 〈〈〈

〉〉〉 Linux Emacs: 2021/10/13 11:13:27 〉〉〉

 昨夜から今朝に山梨の運行のことを考えていたのですが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートで大きな少年事件があったと知りました。娘に対する傷害容疑となっているようですが、強盗放火殺人で死刑も問題になりそうな事件です。

 もう一つ先程、高橋雄一郎弁護士のタイムラインの本人のツイートで知ったのですが、弁護士にとって朗報という盛り上がりとなっている最高裁の弁論の話題がありました。

 「寺町と平和町の境あたり野田専光寺線野田に向かって右側にある洋菓子屋で三千円分ほどケーキを買っていったのです。」というケーキを買った場所のことは記憶になかったですが、これはたぶん午前中で、1月に入ってからのことです。

 このケーキを持って行ったという日は、加湿器のレンタルに泉野に行った日と同じかと思います。泉野に行ったのも午前中だったという感覚なのですが、東力ストア前の追突事故のときは夜の21時から22時に被告発人安田敏の花里のアパートから戻ったところ、という記憶です。

 午前中から夜遅い時間まで被告発人安田敏と一緒にいた記憶はないので、別々の日になりそうですがどちらも1月の前半で、それ以降、被告発人安田敏の花里のアパートに行くことはなかったと思います。

 「河野さんと宇出津・七尾に行った日」という項目で、「私はこの日を一月中だと思い。そうすると14日の火曜日が考えられるのですが、あるいは全然違って、これは平成三年の十二月中だったのかもしれません。」という記載があります。

 記憶の整理がつかない時期というのはあって、試行錯誤で当て嵌めを行ったのはまるで事実の断片のジグソーパズルを組み合わせるような作業でした。しかし、ミカンでAコープ能都店に行ったのを1月14日と推定しているのは、理解ができません。

 河野秀美さんとAコープ能都店に行ったのは、11月の中頃と考えた時期が長かったとも思うのですが、年の瀬の雰囲気がありました。Aコープ能都店に着いた時、外はすっかり暗くなっていましたが、夕方の買い物で人手が多く活気が感じられました。

 そのときAコープ能都店は、店舗の改装中だったのか、建物の道路の向かいに仮設の店舗があって、テントの小屋のようにも思えたのですが、テレビでみた終戦後の闇市のような独特の雰囲気があったと記憶に残ります。

 前にも書きましたが、和歌山のかつらぎ農協の場合、年が開けて平成4年1月になると、極端にミカンの荷物の量が減ったように思います。金沢市場輸送で九州のミカンを運んでいた頃は、1月中はまだ出荷量も変わりがなかったような気もするのですが、漠然とした記憶となっています。

 現在は品種改良などでミカンの時期に違いはありそうですが、1月中にミカンの大売り出しというのはなかったような気がします。ミカンも10キロの箱が当たり前で、5キロというのはかつらぎ農協で積み込んだような気もしますが、5キロの箱だと珍しく感じたはずです。

 宇出津のスーパーでも昭和から平成の初めに比べると、ミカンの消費がずいぶん減ったように感じます。10年ほど前に廃業した旧宇出津駅の近くのマルゲンというスーパーも、廃業する数年前は、店の前にミカンの箱を山積みで並べている光景があったと思います。

 年末でもミカンの箱売りというのは、あっても少ないように思います。

 1月4日に、被告発人浜口卓也と金沢市諸江の河野秀美さんの家に行ったことは覚えていますが、娘に会ったことはすっかり忘れていました。「娘が強姦されたらうれしい」という信じ難い河野秀美さんの発言は、ここに記載がないようです。

 その「娘が強姦されたらうれしい」という信じ難い河野秀美さんの発言は、走行中のトラックの中で、それも夜に聞いたという記憶です。考えられるのは、Aコープ能都店に行った帰りで、割と最近まで忘れていたのですが、そのあとに七尾市の公設市場に向かいました。

 スーパーの荷物と市場の荷物を一緒に積んだのは、他に記憶がなく珍しかったように思います。大型車で運んだのも珍しかったですが、貸し切りでミカンを運んだことは、昭和61年の山中温泉と、時期ははっきりしないですが、珠洲市飯田のスーパーにも4トン車で行った憶えがあります。

 金沢市諸江はかなり範囲が広いのですが、河野秀美さんの家というのは、問屋町のトナミ航空の近くで、よく通る道沿いに入ったことはなかったですが、けっこう大きなレンタルビデオ店があることは知っていて、すぐに河野秀美さんのそこで被害者安藤文さんに会ったという話を理解できました。

- 2021年10月13日01時27分の登録: REGEXP:”東京地検に出頭”/データベース登録済みツイートの検索:2021-10-12〜2021-10-12/2021年10月13日01時26分の記録:ユーザ・投稿:8/17件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2021-10-122021-10.html
- 2021年10月13日01時38分の登録: REGEXP:”飯塚幸三”/データベース登録済みツイートの検索:2019-04-21〜2021-10-13/2021年10月13日01時36分の記録:ユーザ・投稿:46/102件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2019-04-212021-10.html
- 2021年10月13日01時56分の登録: REGEXP:”本人訴訟のご相談”/データベース登録済みツイートの検索:2021-10-07〜2021-10-07/2021年10月13日01時56分の記録:ユーザ・投稿:2/2件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2021-10-072021-10-0720211013015622.html
- 2021年10月13日02時09分の登録: REGEXP:”本人訴訟支援サービス”/データベース登録済みツイートの検索:2021-10-07〜2021-10-08/2021年10月13日02時08分の記録:ユーザ・投稿:12/13件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2021-10-072021-10_13.html
- 2021年10月13日10時25分の登録: \モトケン @motoken_tw\弁護士も医師も、政治家になると本来の職業意識が歪む人が多いのかな?もともと歪んでいる人もいると思うけど。https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/motokentw_13.html
- 2021年10月13日10時34分の登録: \モトケン @motoken_tw\弁護人の先生たち、大変そうだな。https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/motokentw_3.html
- 2021年10月13日11時07分の登録: \高橋雄一郎 @kamatatylaw\一審無罪,高裁で有罪,弁論やるってことは最高裁で無罪判決が出る可能性が高いね。最高裁は「訴訟外裁判批判は雑音である」と合同訓示で述https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/kamatatylaw_13.html
- 2021年10月13日11時08分の登録: \弁護士戸舘圭之オフィシャル/とってぃ/袴田事件弁護団 @todateyoshiyuki\乳腺外科医の事件、最高裁弁論開くんだ!!https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/todateyoshiyuki.html
- 2021年10月13日11時12分の登録: REGEXP:”少年逮捕”/データベース登録済みツイートの検索:2011-10-19〜2021-10-13/2021年10月13日11時10分の記録:ユーザ・投稿:28/44件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2011-10-192021-10.html
- 2021年10月13日11時21分の登録: REGEXP:”乳腺外科医”/データベース登録済みツイートの検索:2020-07-17〜2021-10-13/2021年10月13日11時18分の記録:ユーザ・投稿:74/115件https://kk2020-09.blogspot.com/2021/10/regexp2020-07-172021-10.html

第5章(第五点)「三度の会見」

池袋から戻った一月十四日から一月二十一日の間に、私は三回裏駐車場で彼女をトラックに乗せているのです。(三回目は21日で、これははっきりしている。)
一回目は、私がいきなり退社するところの彼女に現場にて声を掛けたもので、その時の約束により、二度目に声を掛け、その二回目の時には彼女は美容院に行きたいと言ったので、私は直前に中央市場にて買ってきたジョージァのティスティ(缶コーヒー)を彼女にあげて次の約束をもらってすぐに別れたのです。
そして、三度目に声を掛けるつもりか、声を掛け合うことを決めていたのが一月二十一日だったのです。
ところで、それを表にして一回目と二回目の当日を考えてみたいと思います。
┌──────┬──────────────────────────────┐
│ 一月12日日│金沢(トナミ航空) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 13日月│池袋(三越デパート) │
│ │古河(山三青果) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 14日火│北陸(卸売市場) │
│ │ (河野さんと宇出津・七尾に行った可能性あり) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 15日水│ (安田に付き合って古河便を卸しに行った可能性あり。│
│ │ギョーザの王将に行った。) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 16日木│出社 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 17日金│ │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 18日土│名古屋(名港大橋)行きミールを積み置き、あがり。午後八時頃、多│
│ │田食事をおごった。 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 19日日│多田の東尋坊鉄パイプ事件により安田、高槻全農に代走。 │
│ │名古屋に向け出発 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 20日月│名古屋でミール卸し、岐阜県可児市よりパレットを積み、当夜浜田工│
│ │場にて卸す。 │
│ │前妻の電話と訪問があった。 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│  21日火│遅刻による10時半頃の出社とハイミールにおけるミール移動 │
│ │彼女との三回目の会見。 │
│ │東インターから西インターの走行のあと浜口宅に行き彼女の自宅に電│
│ │話を掛けた。 │
└──────┴──────────────────────────────┘

右の表によると、一回目と二回目の会見があったのは16日、17日、18日の三日間をおいて他には考えられないのです。
そして一回目を16日とすると、私は当日運行に出発しなかった、すなわちあがりであったと言うことになり、そうすると、17日に運行に出たと考えると次のようなことになるのであります。(これは仮説です。)
┌─────┬───────────────────────────────┐
│16日木 │あがり 一回目の会見 │
│ │ ㊤ ㊥ ㊦ │
├─────┼───────────┬──────────┬────────┤
│17日金 │出発 │出発 │出発 │
├─────┼───────────┼──────────┼────────┤
│18日土 │関東 │関西 │名古屋(空車回送)│
├─────┼───────────┼──────────┼────────┤
│19日日 │北陸 │北陸 │ │
└─────┴───────────┴──────────┴────────┘
右によると㊤、㊥の場合他の事実と全く一致がなくなります。
よって私の現在の見解によると、もっとも可能性が高く合理的なのは㊦でありまして、私は16日に一回目に彼女に会見してから翌17日にミール移動の後名古屋に出発。翌18日の朝に名古屋でミールを卸し、それからすぐに金沢に戻り名古屋(名港大橋付近)行きのミールを積み置いたのではないでしようか。それ以外に考えられるのは、16日〜18日まで私はずっとミール移動をしていてどこにも運行に出発しなかったということになります。いずれにせよ、この期間に関東便に行ったとは考えられないのですから本書二百四十九の③と二百五十の④の事柄はこの期間内にあったとはまず考えられないのですが、そうすると問題となるのは、二百四十九の④における事柄の日野自動車に行ってその前の食堂から会社に電話を掛けたことですが、この時私は、シートの破れを見てもらうために日野に行ったものと思うのです。そうするとそのシートの破れは一月十三日の池袋の三越の立体駐車場のガードにこすったものと思われ、私はその運行から戻った(14日)あとのミール移動中においてその破れに初めて気が付いたのです。
《補足》
二百四十九の③
私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
二百五十の④
また、私の記憶によると、この関東便から戻った日に私はあがりで日野自動車の前の食堂の前の電話ボックスなどから数度会社の彼女に電話を掛け、「今日仕事終わったら一緒にラーメンでも食べに行かんけ」などと誘い。そのあと夕方に掛けた電話で、彼女に、「今晩自宅のほうに電話を掛けてください」といわれた事実。(時間は何時でもよいと彼女は言った。)
その件において考えますと、私は14日か16日に日野に行ったことになります。そうすると当日に私は承諾を受けた上で彼女の自宅による電話を掛けたことになるのです。(二百五十の④、⑤の事柄)
二百五十の⑤
そして私は、その日は彼女をが出るものと思い込んで、承諾は得ている思いから負い目もなく午後八時半、そして九時と三回ほど電話を掛けたのですが、いずれもお母さんが出られ、明るく優しい声で、ちょっと申し訳なさそうに彼女の不在を伝えたのです。この事柄は極めて時期がはっきりしないのですが、でも確かに思うことは、一月二十二日の未明(夜中の二時頃)に私が掛け彼女を怒鳴りつけた以前のことであります。一月二十五日に彼女のネックレスを見た私が、夜にかけた電話では、それまでとお母さんの態度が一変して悪くなってしまったのです。さらに、以来事件まで彼女のお母さんが対応に出たことは一度もなかったのです。(例外として三月二十三日の「いつまで話しとるが」)
⑧さて、右の①〜⑤の事実を他の事実に当てはめてみたいと思います。
まず①を1月6日に定めてみます。
このうち前者である14日とすると、私は休日の前の夜に彼女の自宅に電話を掛けたことになるのですが、私としてはそのような感覚はないのですが、今思うに、これはもっとも可能性の高い事実かもしれません。そうすると、当日に河野さんと宇出津・七尾に行ったことは言うまでもなく間違いで、上申書に記載したものも誤りということになります。 一方で、後者である16日として考えてみると、まず、一回目の会見が当日でなかったことになり、そうすると、17日一回目の会見18日二回目の会見(美容院)となり、二日続けてあがりであったことになり、そうすると16日もあがりとして私は三日間運行に出発しなかったことになるのですが、やはりこれは不自然であります。
そうすると、私が日野に行った(二百五十の④、⑤)事柄をシート破れ以外の用で行ったものでない限りは、本件はやはり1月14日以外にはまず考えられないのであります。 そして、その年開けより私が一月十二日まで一度も彼女の自宅に電話を掛けていなかった事と、彼女のお母さんの対応を(二百五十の⑤の1)考えますと、ますます確実なのであります。
一方で、15日の夜に、私が安田の古河便の付き合いより王将で食事をおごってもらったと考え、そのあとで東力ストアーの事故にあったと考えますと、その翌日であることがはっきりしている二百四十六の事柄は16日の木曜日ということになるのでありますが、それと一回目の呼びかけによる会見が同じ日であるとはまず考えられないのです。その論拠は、まず、彼女は当日腹を立て、以来三月六日まで二度と私の前にコーヒー機を見せなかったのです。それに対し、一回目の会見の時の彼女は、かなりはにかんでいたものの満足そうに上機嫌だったのであります。それは私も同様で、コーヒー機の直後は、私も後悔の混じった複雑な気持ちだったのであります。それに対し、一回目の会見の時も、二回目の会見の時も私は当時としては最も安心且つ充足した気持ちだったのであります。

(2021年10月13日補足:)
 既出ですが、「今晩自宅のほうに電話を掛けてください」という電話のことは記憶にありませんでした。それも日野自動車から戻った後、夕方に掛けた電話となっています。日野自動車にいるときは、まだ明るい時間でしたが、それでも夕方に近い感覚が残っています。

 記憶がはっきりしませんが、富山県の高岡市の方から来て日野自動車に入ったような気もします。当時の日野自動車の工場は、国道159号線沿いで、森本から来ると国道8号線と交わる数百メートル手前、右側でした。その後、移転した日野自動車の工場は入ったことがありません。

1992-01-02
1992-01-03
1992-01-04 金沢
1992-01-05 岐阜
1992-01-06 ミール移動 北陸ハイミール、15トン×3回=45トン、五高倉庫
1992-01-07 金沢
1992-01-08 大阪北部市場 和歌山 かつらぎ農協
1992-01-09 金沢 小松、七尾 運行費3000円
1992-01-10 岐阜
1992-01-11
1992-01-12 金沢 荷主、金沢市場輸送(トナミ航空)、展示会
1992-01-13 東京池袋 古河
1992-01-14 高岡、富山
1992-01-15
1992-01-16 ミール移動 北陸ハイミール、15トン×2回=30トン、水島倉庫
1992-01-17 ミール移動 七尾 北陸ハイミール、15トン×1回=15トン、水島倉庫 材木、丸一運輸
1992-01-18 山梨 2箇所卸
1992-01-19 東京池袋 金沢市場輸送、展示会
1992-01-20 金沢 金沢 荷主、北陸ハイミールを訂正し金沢市場輸送、ミール21トン
1992-01-21 名古屋 岐阜 岐阜県可児市から木製のパレット、当日の夕方に浜田漁業金沢工場で荷降ろし
1992-01-22 ミール移動 金沢 北陸ハイミール、15トン×2回=30トン、水島倉庫

 ちょっとレイアウトが崩れていますが、LibreOfficeのxlsxというエクセル形式のファイルから直接、テキストを貼り付けました。業務日報.pdfをベースに作成したものですが、もともとこの業務日報.pdfには大きな疑問点が伏在します。

 市場急配センターでのミール移動ですが、回数が実際より少なく見える他、一度のミール移動のトン数が15トンとなっています。ミールはパレット済みでしたが、それを2段積みにすることが多かったという記憶です。

 1段でミールのパレットを何枚積んでいたのか思い出せないですが、1段で12トン、2段積みで24トンになっていたかと思います。15トンというのは名古屋行で多いトン数だった気がしますが、パレット3枚ほどのミールをバラシて積んでいた記憶があります。

 効率も悪いので倉庫移動でパレットのミールをバラシて手積みすることはなかったと思います。そういえば、「名港大橋付近」というのも記憶にない場所でしたが、名古屋港の近くでミールを卸したような記憶はあります。

 もともとミールは知多半島の入口辺りに運ぶことが多かったのですが、そこでは魚粉のミールをインスタントラーメンのスープに使っているという話もありました。三重県の四日市市には1月24日に一度だけ荷降ろしをしたことになっていますが、2回続けて行ったものと考えていました。

 この四日市の倉庫には、それまでにない数の大型車で一斉に向かい、被告発人浜口卓也と、被告発人東渡好信の姿もあったと思います。深夜に、国道258号線で、岐阜県と三重県の県境辺り、左側にある食堂に入って食事をしたこともよく憶えています。

 運行表.pdfをざっとみたところ、126ページの平成4年1月7日付で初めて「運行指示票」なるものが出ています。途中からもらうようになった記憶はあるのですが、出るときと出ない時があったらしく、業務日報全体でそうなっています。

 運行表.pdfの139ページが山梨行きの運行指示票です。前述の通り、私はミール移動に向かった北陸ハイミールから七尾市に向かっているはずで、会社に帰ってからこの運行指示票を渡されたか、他の誰かが後付をしたことになります。

 ただ、早い段階で、私の記憶は呉羽パーキングエリアから掛けた電話の被告発人池田宏美との会話で途切れ、そのあとの運行が記憶にありません。小杉インターから乗った先ですが、今考えると私の記憶にあるのは上り車線のパーキングエリアです。

 北陸自動車道の場合、どちらが上り車線になるのかはっきりした記憶がないですが、米原方面に向かうのが登り車線で、新潟方面に向かうのが下り車線となっていたようか感覚で、そのように書いています。

 そのときの気分や道路状況で、滑川インターから北陸自動車道に乗ることもあったように思います。小杉インターの方はいったん山の方に向かうので遠回りをしているような感じがありました。

 小杉インターの先の呉羽パーキングエリアですが、その次が富山インターになります。富山インターは国道8号線からけっこう離れていましたが、富山インターの近くに市場があり、他にも積み込みや荷降ろしが周辺にあってよく利用するインターでした。

 しかし、同じ日に、津幡町能瀬、鹿島、呉羽パーキングエリアと連続して会社に電話を掛け、被告発人池田宏美た主体的な対応をしたのは、他に類例のない状況での事実です。

 業務日報も「山梨 2箇所おろし」などとなっています。前述の通り、他にも丸一運輸の材木とベニアは2箇所卸が多く、そう言われれば2箇所卸だったような気がしたのですが、不思議なほど離れた場所ではなかったと思います。印象に残る風景の集落でした。

- 韮崎市 - Google マップhttps://t.co/T8OTTPJa4L

 住所はこの韮崎市だったように思うのですが、これまでの記憶では国道52号線で静岡方面に走り、20分ぐらいにある右手の集落だったのですが、Googleマップで見るとそれらしい地形の場所は見当たらず、身延町の可能性を先に考えたのですが、地形が違い、国道20号線からも離れすぎている気がします。

 右手の山に向かって広い斜面が広がり、その斜面に集落があったという記憶です。長距離トラック運転手の仕事ではいろんな場所に行くのですが、不思議と気になる風景で、なにか他に印象に残ることがあったとも思うのですが、ぼんやり霞んだ状況となっています。

 また、見落としがあるのかもしれないですが、浜田漁業金沢工場のミール移動をしたという形跡が業務日報には確認されませんでした。北陸ハイミールのパレットは浜田漁業金沢工場のパレットより、幅が広かったと思いますが、その分高さが低くなり、重さは同じだったかもしれません。

 一枚のパレットで1.2トンだとするとパレット10枚で12トンになります。ミールは一袋25キロだったと思います。市場急配センターが警察に重量違反を知られるのを避けたとも考えたことがありますが、徳島の運行は18トン、福岡の運行は24トンとそのままになっていました。

 業務日報.pdfの168ページですが、「25×960袋」という私とは明らかに筆跡の異なる追加の書き込みがあり、同様に福岡の下にも「上組 福岡倉庫」とありました。

- 須崎ふ頭 - Google マップhttps://t.co/5DkeD7rPQ3 \n 〒810-0071 福岡県福岡市中央区那の津9

 福岡での卸先は、上記の須崎埠頭だったと思います。上組の倉庫という記憶はなく、福岡に上組の倉庫があるとも考えたことはなかったと思います。上組は神戸市を中心とした港湾の倉庫など多い大きな会社でした。

 私が福岡に24トンのミールを運んだ前後、前後どちらか忘れましたが、前後に半月ほどの幅で、北陸ハイミールの会社の前で輪島屋鮮冷の大型保冷車を、たぶん同時に2台、見かけたことがあり、福岡行きだと聞いていました。同じ頃、同じ場所で協共運輸の大型車も見かけています。

 そのとき見かけた協共運輸の大型車の運転手というのが、昭和59年に金沢市場輸送にいた4トン保冷車の運転手で、免許取り消し中でした。変わった名前で、その名前は今も憶えています。

第6章(第六点)
一月十九日の日曜日、私は前日前夜に一緒に出発することを約束していた多田を会社で待っていたのです。たしか午後四時頃に約束していたところ、30分ほど遅れて、多田がもう一人の年格好の似た、私の初めて見る友人を連れて、一緒に体全体を引きずって痛そうに控え室に入ってきたのです。
事情を訊くと、多田は前夜にその友人と女の子二人と四人で東尋坊にドライブに行ったところ、言いがかりをつけられケンカとなり、いったんは相手を叩きのめしたのであるが、それで自分たちの車に戻ろうと歩いていたところを背後より相手の二人組により鉄パイプで殴られたという話で、多田らと一緒にいた女の子の話によると相手は関西系の暴力団員のやくざであると申しておりました。
余りからだがひどそうで、私も以前怪我をして運行に出たことがあり、その強いて仕事をするという多田の言葉を信じて、安田に電話を掛け、代わりに走ってくれるように頼んだのです.....。が、そうすると、ここで新たな疑問が出ました。私はその前日である18日の土曜日、その時多田が出発するはずであった大阪府高槻市の全農行きの馬鈴薯を一緒に手伝って石川丸果 の倉庫で積んだように思うのです。そうすると先に述べた18日の朝に名古屋でミールを卸し、戻って当日にミールを積んだことはまず不可能事のように思われます。
また、多田にその前日の夜に食事をおごったのは、電気屋(金沢デンソー)の前の新しい焼き肉屋であったと思うのです。その時多田は家に帰って寝るようなこと、ひどく疲れているようなことを申しておりながら、一体どうしてそれから東尋坊など行くことになったのか不思議に感じたことを覚えております。
また、私は一度パチンコオークラで安田と一緒になり、なぜか安田のおごりでその焼き肉屋に行ったこともあるのです。多田と行ったのと安田と行ったのとどちらが先であったか覚えていないのですが、同じ頃で半月から一ヶ月近く間を開けていたように思うのです。あるいは安田と行ったのは12月30日の夕方であったかもしれません。
また、私はその当時、その焼き肉屋の近くの紳士服モリワンの隣の中華食堂「翔」にも退社後何度か多田を誘って食事を一緒にしたのであります。
はっきり覚えているのは、一月二十二日の夜か、二十三日の夜、あるいは二十四日の夜に市場輸送で浜口さんたちが麻雀をしているのを待っていたときに、和田と多田と三人で「翔」に食事に行ったことであります。(これは二十四日が一番有力)また、一月二十二日の夜か二十三日の夜には、午後十一時頃市場輸送よりたしか東度の乗用車を借りて、靴流通センターとバス停の前の山崎ディリーストアー(コンビニ)の間にあるうどん屋源助に一人で食事に行った覚えがはっきりしております。
また、話は飛ぶのですが、三月二十日の祝日の日、私は、前日に五高倉庫で積み置いた清水行きのミールを出発するのに昼過ぎに出社してから、食事をしてから出発しようと思ってその源助に行ったのですが、すると先に浜口さんと浜上さんとそしてもう一人誰か(咲川さんかも)が三人いて、私が食事を始めた頃に彼らはおあいそをして出ていったのですが、その時浜口さんは、私の注文した分も支払ってくれたのです。そして彼らはその時パチンコオークラで遊んでいる途中であるといっていたように思います。このように源助は東度などもよく利用していた、ほとんどカウンター形式の店なのであり、店の主人は頑固そうな感じの、少し、ある寡黙な人物で、割と愛想の良い感じの夫人と二人だけで商売をしていて、わりとよく、いや、かなりはやっている店であります。
《補足》
東度がその店で食事をしている姿も、話も聞いた覚えはないが、これはあくまで推定であります。
それから私は、一人で名古屋に向かったのであります。出発したのは午後六時半頃だったように思うのですが、なぜか名古屋の現地(目的地、名港大橋付近の卸し先)に到着したのはかなりおそく夜中の二時か三時頃だったのであります。
《補足》
ここまで見て肝心なことが抜けております。それは安田に代走を頼むのに前後して控え室から松平に電話を掛け事情を説明し理解を求めてやったことです。つまり私が多田に代わって松平に代走の許可をもらってやったような感じだったのです。松平は不機嫌そうですぐにいいとは言いませんでした。そんなこともあり結構長い電話になったのです。なにか指示のようなものも出てかけ直しをしたような覚えもあります。多分安田の返事を得てから報告するように言っていたのだと思います。一方の安田ですが、彼もすぐはうんと言わず、私が説得して渋々承知したのですが、私が一緒に行こうというと妙に力を込めて拒んでおりました。恐らくこれも連中の共謀で、実際に安田は走らなかったのかもしれません。
それから私は朝になって荷物(ミール)を卸したのですが、その時丸一運送と丸和運送の二台のウィング車が同じミールを積んでおりました。そして手伝い合って荷卸し作業をしたのです。

(2021年10月13日補足:)
 咲川という人のことが思い出せないのですが、大型運転手で、あるいは金沢市場輸送の大型平ボディ車の運転手だったのかもしれません。思い出せそうで思い出せないもどかしさがあります。金沢市場輸送の麻雀のメンバーだった可能性もありそうです。

 数日前にもこの証拠番号5で見かけた「源助」ですが、これがさっぱり思い出せずにいました。読み直すと咲川という人の名前がでたのは3月20日のこととなっていました。時間帯をみても金沢市場輸送で麻雀をしている時間ではなさそうです。

 「、靴流通センターとバス停の前の山崎ディリーストアー(コンビニ)の間にあるうどん屋源助」の部分がよくわからないのですが、靴流通センターは、中央市場口交差点から少し入ったところ、バス停の前の山崎ディリーストアーは、金石街道沿いだったと思います。

 はっきりとは思い出せないですが、金石街道の中央市場口交差点の角に靴流通センターがあったのかもしれません。その辺りのバス停というのは金石街道以外になかったと思います。

 うどん屋源助がどういう店だったのか思い出せないのですが、石川県で源助と聞いて思い出すのは源助大根です。「翔」という中華料理店のこともすっかり忘れていましたが、白い壁の喫茶店のような建物だったかもしれません。

- 翔 - Google マップhttps://t.co/bmsgrIERU9 \n 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町2丁目5−7

 私の記憶とは違った建物ですが、それらしい場所に翔という中華料理店がありました。手前に右に入る道路がありますが、その右側の角に白い壁の店があったような記憶でした。右に入る道のすぐ先には斜めに右に入る道がありますが、その次か次の建物が金沢デンソーでした。

 その斜めに右に入る道で、翔という中華料理店の向かいに中古車販売のような店舗がありますが、この場所に新しい焼肉店があったと思います。白い壁の店があったと思う場所には、平成3年の12月には、紳士服モリワンの店舗があったとも思います。白い壁の店はその前にあったのか記憶がはっきりしません。

 Googleマップで自動車販売店はセイロモータースとありますが、金沢中央卸売市場に向かって少し先の最初に左に入る道の右側に、市川タイヤがありました。

- 波多野整形外科 - Google マップhttps://t.co/CiJN0oW08U \n 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町1丁目3−12

 記憶より建物の長さが半分ぐらいにみえるのですが、昭和59年の7月から8月頃に被告発人大網健二が入院していた波多野整形外科も残っているようです。被告発人大網健二が金沢市場輸送の指示で行った病院とも聞いていました。

- 石川ダイハツ販売(株)金沢駅西店(本店) - Google マップhttps://t.co/qiwuCG7rl7 \n 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町3丁目15−1

 石川ダイハツ販売(株)金沢駅西店(本店)となっているのは、パチンコオークラがあった場所です。周辺も広い駐車場になっていました。その駐車場の端が金沢市場輸送の駐車場や給油機と隣接していました。給油機の横にはブロック塀があったと思います。

 「その時丸一運送と丸和運送の二台のウィング車が同じミールを積んでおりました。そして手伝い合って荷卸し作業をしたのです。」と具体的な記述がありますが、思い出せない記憶です。丸一運送とあるのは丸一運輸のことだと思いますが、運転手と一緒に仕事をした記憶はありません。

 細かく具体的な事実の記述となっていますが、業務日報.pdfでは、1月20日の月曜日にミールを積み、翌日の21日の火曜日に名古屋で荷降ろししたことになっています。

 私のずっと前からの記憶では、19日の日曜日に出発、翌日の20日の月曜日に名古屋でミールを卸し、その日に岐阜県可児市からパレットを積んで、すっかり暗くなっていましたが夕方の18時頃には浜田漁業金沢工場に到着し、荷降ろしをしています。

 その1月20日の夜に前妻から連絡があり、翌日の夕方に被害者安藤文さんと3度目の会見をし、被告発人浜口卓也のアパートに行っているはずです。わずか1日の違いのようですが、この違いがどうにも理解できません。運行表.pdfの日付に対応した業務日報の領収書は揃っています。

 業務日報.pdfの144ページですが、業務日報に日付が平成3年1月20日から21日となっています。これは明らかな間違いのようですが、本当に私が4年を3年と書き間違えたのかも疑問です。ミールのトン数も21トンとなっていますが、18トン以上というのは24トンしか記憶にありません。

 本来、この業務日報というのは運行を行った運転手が、伝票と呼んでいた受取の受領書と一緒に会社に提出しているはずですが、この受領書というのは1枚も存在していません。高速道路領収書や給油所の伝票も一緒になっているので、本来は受領書と一緒に管理されていそうなものです。

 業務日報.pdfの166ページにある給油所の納品書(領収書)を見ながら思ったのですが、2日ほど前に初めて気がついた車番の印字があります。3068号となっています。「西日本フリート株式会社 R-8カナザワSS」とあり、日本道路公団の高速の領収書とは違い、右下に11時52分と思われる印字があります。

 確定的な根拠は見つからないですが、あらかじめ他の運転手の給油カードや高速道路のカードとすり替えられ、段取り通りに業務日報に合わせた別の運行が行われていたのかとも思えてきました。

 最近になって他に気がついたのは、その給油カードが市場急配センターではなく金沢市場輸送の名義となっていることです。

 業務日報.pdfの163ページある業務日報も日付が平成3年になっています。普段からその年を間違えるほどいい加減でそそっかしい、あるいは精神的に錯乱気味の状態であったという印象づけを狙ったとも考えられます。

 被告発人松平日出男は4月1日の事件直前の3月分の日報はないと言っていましたが、まるで用意でもしていたようにすぐに私の運行記録が欲しいという申し出に応えていました。

 業務日報.pdfの163ページある業務日報は、行き先場所を「埼玉」とだけしていますが、送り状には番地までの住所の記載があったはずなので、埼玉ではなく、市町村名を記入していたと思います。これまでも大利根町というのがありました。

 平成9年か10年に、再審請求のことで金沢地方裁判所に行った時も、書記官に業務日報の筆跡の違いを指摘しているのですが、まともには取り合ってもらえず、その場だけの対応でした。

〈〈〈 2021/10/13 18:39:35 Linux Emacs: 〈〈〈

《補足》
これも軽視できない問題であります。なぜならこの荷物を降ろした日は、私の記憶と松平の日報の間で矛盾し対立する関係にあるからです。丸一のトラックが私とおなじ荷物を積んでいたのでそこから調べれば確認することができるかもしれません。ここでウィング車とありますが、これが事実であれば、丸一には平ボディのトラックが多かったはずなのでさらに特定を絞ることができるかもしれません。しかし、この時、一緒になったこと自体が東度の画策であったことも考えられるので仕掛けた罠にはまりこむことも予想されます。なぜなら私の経験上七尾のトラックが二台も一度にミールを運んできていたことは見たことがなかったからです。ウイング車であったか否かも現在でははっきり思い出せません。もう一台が丸和であったことも同様です。しかし、ここでこのように記述していることはその他の状況を勘案して考えても確実性を疑う余地は少ないと思います。そもそも丸一のトラックがミールの仕事をする姿など見たのはこの時が初めてであったかもしれません。ただ同じ頃には他の機会にも見掛けたような気はしないでもありません。何となくでありますが、二人の運転手とも三十代ぐらいの若い運転手であったような覚えがあります。三十代の運転手というのは案外少ないもので特に丸一などの仕事内容の運送会社ではその傾向が強かったのです。建設系とでも言いましようか、そんな感じで、四十代から小十代の運転手が多いのです。いくつか理由があると思いますが、格好が悪いというのも理由になるかもしれません。そもそも長距離の運転手は大会社を別にすれば、二十代の若者と事業に失敗したりした中年が多いのです。特に根拠はないのですが、これは市場輸送にも急配にもぴたり当てはまる法則です。他の同じような規模の運送会社でも似たような感じでした。
それから私は、蟹江インターから清洲東インターまで東名阪自動車道に乗り、国道22号線を岐阜市方向に向かい一宮インターより名神高速道に乗って中央自動車道多治見インターに降りて、国道155号線より可児市内に至ったように思い、そのように上申書に記述したように思うのですが、あるいは、小牧インターから降りて国道41号線を通って可児市に至ったのかもしれません。いや、その可能性の方が高いように思います。たしか、犬山市と可児市のちょうど境あたりの弁当とうどんの店(金沢で言えば八幡のすし弁のような店)で、昼食をして、そこに電話機がなぜかなかったので、そこから一キロほど走ったところでトラックを停め、左側にある飲食街のようなところから、会社と可児市のパレットの積み込み先に電話を掛けたのです。
この時の電話も、池田との会話でポイントとなる要素があったと思うのですが残念ながら全く覚えておりません。
それから私は午後一時過ぎか半頃に、その電話を掛けたところから(そこはちょうど小さな山の頂上になっていた)山を下りて可児市内に入ってまもなくすぐに右折して二、三キロほど直進した右側にある結構大きな製作所のような所に入って、暫く待ってパレットを積み、午後三時頃に(二時半との間ぐらい)出発したのであります。積み荷は木製のパレットで、納入先(卸し先)は、浜田漁業金沢工場でありました。
可児市の積み込み先を出発してから私は、国道21号線を岐阜方向に向かったのです。そして30分ほど走った各務原市内の手前からバイパスに(左に)入ってすぐの道幅の広くなったスーパーの前のような所にトラックを停めて、会社に電話を掛けたのです。
そうしたところ、松平が出て、今から高速道路を利用して今晩浜田漁業金沢工場に着き次第荷卸しするよう指示を受けたのです。
そこで私は、岐阜羽島インターから金沢東インターまで高速道を利用して午後七時頃には目的地である右工場に到着したのです。
そこで市場輸送の4トン車の運転手で、その当時免停中であったと思われる尾野さんに手伝ってもらって(リフトの運転)午後八時四十五分頃には作業を終えて会社に向かって出発したのです。
会社に戻ってから私は暫く一階控え室にて一人でストーブをつけてボーっとしていたように思います。これは自宅に戻っても小さなストーブしかなかった(炬燵はあったけれど一度も使用しなかった。)私にとってよくあったことでもあります。でもなぜかテレビはそこにあったけれどつけて見ることはしませんでした。
それから自宅に帰った(着いた)のが、午後十時過ぎでした。戻ってすぐに風呂を沸かそうとガスをひねってお湯を浴槽に溜めようと出したところで電話が鳴ったのです。
出るとそれは前妻でした。
十一月の上旬以来の連絡でありました。前妻がどうしても一目会いたいというので、私も写真とか子供の服とか渡したいものがあったので、たしか0時半に来ることを決めて十一時四十五分頃に電話を切ったのです。それから風呂を沸かし直し、入浴中にもうあがろうとしていた頃に、前妻が来たので私はすぐにあがって、そして渡すものを渡し、必要なものを持って行くように言ったのです。その時前妻は表に子供たちを乗せたままタクシーを待たせていたようです。それからすぐに前妻は帰って行きました。
そして、帰ってから二十分ほどすると、また電話が掛かり、出ると前妻でした。それから、最後の電話だからと言って会話は長引き、午前五時頃まで途中二度ほど切ってまた向こうから掛け直しがあって続き、そして前妻はどうしても、私の寝顔でもいいから逢いたいと言ってゆずらず。それを承諾してから電話を切り、私は疲れており翌朝より仕事もあったので布団に入っていたのです。午後五時半頃だったと思います。約束通り前妻が来たのは、十五分ぐらいいたように思います。(あるいは10分か20分ぐらいだったかもしれません。)
当日私は、ミール移動のため午前七時半頃には出社しなければならないことになっていたのです。(ハイミールに八時頃入るため)
しかし、私は精神的にも身体的にも疲れがたまっていたため寝過ごしてしまったのです。会社に出社したのは午前十時半頃だったと思います。
この時も、池田が私に声を掛けると、すぐに彼女がそれを遮るようにして「東度さんが、すぐにハイミールに来てって」などと哀しそうに訴えかけるように言ったのです。それは十二月の初め頃の日野自動車からの伝言の時と同じような感じであり、私は、その彼女の心痛の原因が、前日(当日でもある)に連絡があった前妻によるものと確信を強めたのであります。
当日(一月二十一日)、私は、午後四時過ぎにミール移動より、翌朝卸しの積み置き分を積んで会社に戻りました。私は当日の夕方に彼女と逢うことをほとんど約束していたのです。(三回目の会見)なのにかかわらず、その当日は退社時間に近づいても彼女は乗用車(6601号)を裏駐車場には停めず、会社前に停めたままであったのです。これは会話を拒否するに転じた意思表示であるに違いないと思った私は、焦ってしまい。何とかしようと思って(そのあと二階で見た彼女の姿は重苦しいものがあり、池田にもそれが強く感じられた。事件当日の退社時ともよく似た社内の雰囲気であった。それで私は一層不安に駆られたのである)
私はすぐに乗用車に乗って中央市場に行き、仲買(青果物)の横にある唯一の電話ボックスから会社に電話を、彼女が出ることを期待して掛けたのです。
ところが、出たのは梅野でした。梅野はかなり威圧的な強硬な態度で、渋ってから彼女に替わりました。これは私が初めて彼女に対する取り次ぎを会社の人に頼んだことです。つまり彼女との関係を公認した初めての表明だったのです。
彼女は困ったように逃げるようにそして開き直るような感じで、今日は用があるから早く家に帰らんといかん、とか言って、会見を一方的に断ってきたのです。そこで私の不安はより大きくたしかなものとなったのです。私はとにかく焦りました。彼女が用があると言ったことは嘘であると端から信用しなかったのです。このままではますます事態は悪化する。その不安に駆られ、その回避のためにのみ私は極度の疲労を強いて彼女に会見を求めたのです。これは事件当日と全く共通してる情況であります。
私は今まで、それに偶然の要素が重なり含まれていたように思っていたのですが、今思うに、それは全く違います。すべて連中の意図により作られた情況だったのです。
この時、私は初めて彼女に強く要件を要求しました。それで彼女も渋々ながら会うことを承知してくれたのです。
それから、私は、会社に戻ってすぐに二階に上がりました。顔を見せておいた方が彼女も安心してくれると思ったのです。そのところ、二階には、十二月二十一日と同じようなメンバー(浜口、浜上、河野など)がいて、いきなり浜口さんが、「どこに車とめとるがい。自分だけの駐車場と思っとるんか」などと、私を怒鳴りつけたのです。
その時私は、会社に戻ったときに彼女の乗用車が裏になかったことにより、慌ててトラックを駐車場のほとんどど真ん中に放置したままでいたのです。私はすぐに下に降りてトラックを停め直しに行きました。そして、会社に戻って一階控え室に入ると浜口さんなどもそこにいて何事もなかったようにしておりました。そこで少し雑談をしてから、私は先の電話で彼女に伝えたとおり、裏駐車場のトラックに行き、その車内で彼女が来るのを待ったのです。トラックからは二階の台所付近の人影が見えるのですが、まもなくその台所の冷蔵庫の横で髪をとく彼女の姿が暫く見られました。
その姿がなくなってまもなく、彼女の車が中央市場の横の道路を走って裏側から裏駐車場の一番奥の方(彼女の入ってきた方からすると手前になる)に彼女が車を停めたので、私はトラックから降りて迎えに行ったように思います。そこで彼女に車のエンジンを切るように言ったことより、まず、応酬が始まったのです。それでもその場はすぐに彼女にトラックに乗ってもらったのです。
話が前後しますが、私はその前に、会社前に彼女の車が停めてあったときに、すっかり暗くなった状況で、彼女の車の後部席あたりに紙袋に入れられたセーターのようなものを見たのです。しかし私は他のことにすっかり気を取られていたので、そのセーターのことは深く考えず、その場はすぐに忘れてしまったのです。
トラックに乗って助手席に座った彼女は、すぐに5分だけとか10分だけとか言ったのです。私は一方的に一人言(独り言)のように前夜に前妻と逢ったことなどを話しました。それによって彼女の反応を見出そうと思ったのですが、彼女はまるっきり感情を殺してそれでも真剣に私の話を聞き入ってくれました。そして、一息ついたところで、直接、彼女に今からのことを申し向けると、彼女はすぐにこれ以上会話は出来ないようなことを言ったので、私は全く感触がつかめず、かえって誤解を大きくしてしまったような不安に駆られ、強く彼女にエンジンを切ってゆっくり話したい旨を申し向けたのです。
そして、彼女が応じなかったことより、私は、ここは大事な場面だから彼女にも心を開いてもらわなければならないと必要に駆られ。それを決意として、トラックを出て、彼女の車の所に行き、彼女の車の運転席のドアを開け、エンジンを切って鍵を抜き取ろうとしたのですが、そのホンダトゥディ覇、私にとって初めて扱う仕組みになっていたので、私は要領を得ずまごついていたのです。(その時彼女の車の中は音楽が流れていた)すると後ろから彼女の声が掛かり、その時は明るい声でやさしい感じだったように思うのですが、「私の車で話そう」と言ったのです。その時私は自分の行為にひどく気後れがあって焦っていたのでその恥じ入ることを打ち消すようにあえて強く「そんなん、トラックでいいわい」などと断じたのであります。
とにかく、相当私は取り乱していたように思います。そこで彼女は一変して不機嫌となり、攻撃的な言動になったのです。私が自分の正当性を主張するため弁明のように「この前、今日逢うって約束したやろ」と言うと、彼女はますます感情的になって、「いつそんなこと言うた。そんな約束今言った。」などとくってかかってきたのです。それはまさに、それまでの周囲の彼女は気の強い女だと言うことを十分に私に印象づけ、認識させるものでありました。
「いったい、私のどこがいいがぁ?」、それはまさに彼女が私の気持ちを十分に認識しながらその上でそのような言動に出ていると思わせるもので、この時も私はより一層納得のゆく話し合いの必要性を強く感じて、逆に彼女に「とにかくトラックに乗れや」などと一喝をして(と言っても、大声で怒鳴ったわけではなく、強く意志を込めて断言したような感じ)、そのまま振り返ってトラックに向かって歩いて行き、そして運転席に戻ったのです。すると少し遅れて彼女が無言のまま助手席に乗ってきてくれたのです。私はそれを確認してからすぐにトラックを発車させたのです。
私も無言のままであったのですが、すぐに彼女は「タバコもらえるけ」と言って、私が返事をすると、彼女は助手席の窓を向きながらタバコを勢いよく吸い始めたのです。彼女の顔は反対側を向いているためと髪の毛によりほとんど見えませんでしたが、それは只ならぬ殺気だった形相であり、対する私もそれと似たような状態でありました。途中、八号線バイパスの交差点と、それを右に向かった次の交差点を、私は乱暴な運転で信号無視をしたのですが、彼女はまるで動じませんでした。
私はトラックステーションの所より反対側の斜線に出るため、八号線の真下をくぐったあたりで、ようやく彼女に声を掛けたのです。それまでは彼女からどこに行くのかなどと声を掛けられることもなかったのです。私は「おまえ、好きな男おるって、あれ嘘やろ」と訊ねたのです。彼女は「嘘じゃない」と言いながらも、その言葉は弱く、返答に窮したように感じられました。
それから私は反対側車線に出て、今度は福井方面に向かうようになり、そしてすぐに東インターより北陸道に乗ったのです。すぐに私は、本線との合流する側道のスペースにトラックを停め、降りて小便をしてきたのです。
車に戻ってから私は、車を発車させながら先ほどの彼女の質問に対し、「どこがいいって、全部や、初め性格悪いかなって思ったけど、今は全部好きや」などと申し向けたのです。彼女は感情を殺したまま返事は控えたように思います。そしてそれにかわってか「一体、どこ行くがぁ」と怒ったようにあきれたように私に申し向けたので、私は彼女に「九州や」などと少しふざけたように申し向けたのです。すると彼女は真剣な声で、「この前、友達来たってゆうたが嘘や、あれ嘘やけど。今日、早く家帰らんなんって本当ねんて、親出掛けるし、私代わりにご飯作らんなんげんて」と訴えるように強く申し向けたのです。 「この前、友達来た....。」というのは、一月十二日夜私が入善PAより掛けた電話の時を指す言葉だと思います。
私は、ここでも自分の過ちを正当するために(事実彼女の方にかなり責任があると思っていた。)、また、単なる言い逃れによる対面を取り除こうと思って(つまり、彼女は、引っ込みがつかなくなったため、攻撃に転じたのではないかと思ったのです。これは前妻によく見られる性格でもあったのです。)、あえて「そんなん出前でも取ればいいがい」と言ったのです。すると彼女は、「うち、年寄りおるし、出前じゃダメねんて、私帰って作らんと」などと本当に困ったように言ったので、私は、すぐに会社に戻ることを彼女に言ったのです。
そして、西インターで高速を降りて反対側の富山方向車線の八号線バイパスに出たあたりで、私は彼女に、思い切って「あの、前から訊きたいと思いながら怖くて訊けんかったことあるんやけど」と、私は自分に向かってつぶやくように言ったのです。すると彼女は、それまでの沈んだ表情を一変させ、急に明るくなり「なんや、なんや」と子供がねだるように、はしゃぐようにして訊ねてきたので、私はその勢いで「文ちゃんの好きな人って、もしかしてオレのことか」と言ったのです。
これは、彼女にとって、相当衝撃的だったらしく、彼女は、明らかに取り乱したようになって、うめくように、吐き出すように、「違う、広野さんじゃない、私....私.....。」と、しゃくり上げるようにして顔を上げ、唇をかみしめ、じっと天を仰ぐように空間に視線を据えながら言ったのです。私はその彼女の反応に、その言葉とともに大きなショックを受け、それ以上聞く事が恐ろしくなり、彼女にとっても酷なことに思えたので、追求をやめ、それと同時に蓄積されていた彼女に対する不信感がこみ上げ、その心中をありのままに言葉にして、「おまえ、気、狂っとるんじゃないか!」と真剣に申し向けたのです。すると彼女は一変して急に笑い出しました。それは極度の精神的緊張感からなされたような、ひきつったような異様な表情で、私は少なからず戦慄のようなものを覚え、彼女はかなり重度の神経質的傾向を持つ女性だと改めて認識したのです。この会話は、ちょうど示野の交差点にさしかかるところであったと記憶しております。そして「おまえ、気、狂っとるんじゃないか」と申し向けたときにはちょうど金石街道に入る測道には行ったあたりであったと思います。そして私は、藤江陸橋の下の金石街道との交差点のあたりで、彼女に「そんなん聞いてどうするが、広野さんのぜんぜん知らん人や」と、彼女の好きな人の名前の一部を訊ねたことより言われ、「上か下か、どっちでも聞けたら、そんで納得できるんや」と言い。さらに、彼女の態度がかたくなであったので、私は「殺してやるわい。殺せばいいんやろ」とやけくそに言ったところ、彼女は急に真剣になって「そこがあんたの悪いとこやろ」とはっきり私に言ったのです。私は「冗談やろ、そんな簡単に人なんか殺せるかい」と言い放ったのですが、その時彼女は、つくづく真に受ける性格だなと感じたのですが、後になると、彼女は私と安田某との関係を心配していたものと思ったのですが、今思うに、これは、池田や東度が作り上げた私の人間像に直接かかわることであったように思います。だからこそ彼女は、あれほど過敏な反応を呈したのでありましよう。
そして、その一方で事件当日必要以上に某の名を出して私に刺激を与えたことから考えると、彼女が某との間柄をごまかしたりしようと考えたり、またその必要があったとは到底考えられないので、やはり直接私に対する誤らされた認識がものを言っていたに違いありません。しかし当時の私は、その時の彼女の予期せぬ過敏な反応と、そして当夜初めて浜口さんより知らされた彼女と某との間柄に私は重ねてダブルパンチを受け、それは並々ならぬ彼女に対する人間不信となって形成されたもので、虚像に魂が入ったような状態になったのであります。いわゆる被害妄想の本格的始まりとなったのであります。
ちょうど藤江交差点を右折しながら私は、「とにかくオレの気持ちはかわらんし(のようなこと)、どうしても嫌なら会社やめてゆけや」と言い向けたのであります。そこで彼女はすかさず、「生活かかっとるんや、なんで会社やめないかんげんて」などと強く反論を申し向けたので、私は、交差点をもう一度右に折れバイパスを戻るような格好で次は福井方向に出たのです。そして私はハンドルを右に切りながら、「だれも会社やめてっていいとらんやろ、どうしても気が引けて嫌やちゅうがやったらやめてゆくしか仕方ないやろ」などと、私は、彼女に自業自得であることを示唆するように申し向けたのであります。すると彼女は、すぐに、「一体どこ行くげんて、私本当に帰らんなんげんて」と言い。私は、「わかっとるわい」と言いながら、「文ちゃん、いったいどんな男好きなんや」と言うと、彼女は答えず、「ほんなら、どんな男嫌いなんや」と言うと、彼女は、気持ちを込めて「いじっくらしい男」と言ったので、私は、「なんやそれオレのこといいとるんか」と言うと、「そうなりつつある」とだけ彼女は答え、それからはほとんどなにもしゃべらなくなったのです。そのあとも、私は、手探りのように彼女の心をつかもうと弁明じみたことを独り言のように話しながら会社に向かったのです。そして会社に戻ったところで、彼女は厳しい面持ちで、トラックから降りる直前に、一言「私の気持ちかわらんし」とだけ言って帰った行きました。
 それから、彼女が帰って私は一階控え室に行ったのです。時計は午後七時頃だったように思います。そこには安田敏を除くと思われるほとんど全員の大型運転手がたむろをしておりました。つまり東度、浜上、河野、浜上(浜口の間違いだと思われる。H9.5.20)、そして水口、津幡のYTもめずらしく遅くまで残っておりました。ほかに朝野などもいたように思います。そして、皆私の姿を認めると、ニタニタと意味ありげに笑っておりました。

(2021年10月14日補足:)
 時刻は0時7分で14日に日付が変わったところです。ようやく「証拠番号5」を一通り読み終えました。改行も少なく文字数がずいぶんな分量になっているとも思っていたのですが、1月21日の夕方遅く、被害者安藤文さんと会社に戻り、別れて控室に入ったところで終わっていました。

 国道8号線バイパスの藤江陸橋の下の交差点を、福井方面から来て再び福井方面に向かったのが意外に思ったのですが、ちょうどその交差点を右折する直前に、被害者安藤文さんに、嫌なら会社をやめていけ、と言ったことは、一枚の記録写真のように印象的に記憶に焼き付いていました。

- 金沢市戸坂 - Google マップhttps://t.co/Mwj31mdRe6

 国道8号線バイパスを再び福井方面に向かい、左折して上記の金沢市戸坂の裏道のような道路を走って、会社に向かったのですが、その辺りの道路は平成4年1月当時の原形をとどめないほどに変わっており、若宮町という住所が広いのも二口町と同じで住所変更があったように思えるところです。

 市場急配センターの二階事務所で被告発人浜口卓也に裏駐車場の駐車の仕方で叱られたのは、一度だけ記憶にあることで午後の4時頃かまだ外が明るい時間という状況でした。金沢中央卸売市場から会社に電話を掛け、避ける被害者安藤文さんに会見を求めたときは、外はすっかり暗くなっていたと思います。

 私が布団に入ってから前妻が帰って行ったことはこれも印象的な記憶となっていますが、午前5時半というのは意外で、午前2時頃か遅くても午前3時頃と思っていました。ずいぶん寒い夜だったことも記憶にあります。前妻は金沢高校の近くのビジネスホテルに宿泊していると話していました。

 長男にタバコを買いに行かせる声も電話口に聞こえたのですが、前妻は結構すると決まった頃、自分からタバコをやめると言い出し、その後、私の前でタバコを吸うことは一度もありませんでした。

 被害者安藤文さんが大型トラックを走らせてから、「タバコもらっていいけ?」と私に声を掛け、タバコを吸い出したことも記述になりますが、その一月ほど前から被害者安藤文さんは、会社でタバコを吸わなくなっていました。KENTという他に見ないタバコをそれまで吸っていました。

〈〈〈 2021/10/14 00:31:59 Linux Emacs: 〈〈〈

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