#告発状\金沢地方検察庁 **** 被告発人大網健二兄弟と竹沢俊寿会長との関係/廃車になった丸中水産と大きく書いた新車の4トン保冷車

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 能登中央図書館で北國新聞縮小版を調べたのは、最後に先月の2022年6月15日で、「平成11年8月号」、「平成11年9月号」、「平成11年10月号」でした。

 その前が2022年6月2日で、「平成6年11月号」、「平成6年12月号」、「平成7年1月号」、「平成7年2月号」、「平成7年3月号」、「平成7年4月号」、「平成6年5月号」、「平成6年6月号」の順です。

 調べたところ、記憶よりだいぶん前で5月16日でした。平成2年7月25日の北國新聞(夕刊)に、トップの記事で「能都の○○組一斉摘発 恐喝など 幹部ら6人を逮捕」とあります。この記事を読んでから竹沢俊寿会長のことを思い出すことが多くなりました。

 ○○組とあるのは漢字2文字の人物の名前ですが、伏せておくことにします。2,3回は同じ部屋の中で会っているのですが昭和57年の春頃のことです。被告発人大網健二兄弟との関係もあるので、これは別に取り上げておきたいと思います。便宜上「能都の○○組組長」としたいと思います。

 被告発人大網健二が私の勧めもあったのかもしれないですが、金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離の仕事を初めたのは昭和59年の4月に入ってからと思います。ほぼ同時に一緒に金沢市東力2丁目の犀畔荘というアパートを借りたのですが私の単独の名義でした。

 けっこう印象的な記憶として残っていながらこれまでネットの情報として記述はしていなかったとも思えるのが丸福不動産になります。最近もテレビCMで見かけていますが、「まるふくふどうさん」という節回しの女性の声が、まるふく、に続き長くなっていました。

- 丸福不動産商会CM 1 - YouTube https://t.co/jt1RQAnJNN \n 1,050 回視聴2015/01/16

- 丸福不動産商会CM 2 - YouTube https://t.co/OYOT2I5LNS \n 1,488 回視聴2015/01/19

- 会社案内 | 金沢市の賃貸・売買情報は(株)丸福エステート https://t.co/ZeVIXNsZ26 \n 本店 \n 〒921-8025 \n 金沢市増泉1丁目18番16号

 検索で最近のテレビCMの方は見つかりませんが、女性の声のセリフが変わったのは「丸福エステート」だったと思います。もともと「まるふくふどうさん」と耳に馴染んでいたので、同じ言い回しでも違和感が大きく目立っていました。

- (株)丸福不動産商会 - Google マップ https://t.co/lc3hbISVtD \n 〒921-8025 石川県金沢市増泉1丁目18−16 M&Fビル

- ホテルアイネ - Google マップ https://t.co/yV9x7jEYd3 \n 〒921-8024 石川県金沢市白菊町21−7

 目印として選んだのですが、記憶にある丸福不動産の場所が上記の「ホテルアイネ」の辺りになります。Googleマップでは「西インター大通り」と表示されていますが、野町広小路の大きな交差点に向かって左手にあったという記憶です。

 場所は金沢市内の中心部に近く一等地と思われましたが、古い平屋のような建物で窓ガラスに物件のチラシを大量に貼り付けていて、焼き鳥屋のようなイメージが残っていて、被告発人大網健二に連れられて入った店の豚足の思い出と重なるところがあります。

- 白菊町 - Google マップ https://t.co/tPCIDp3JO7

 金沢市白菊町をGoogleマップで検索しました。丁目はないようです。この白菊町では大きな思い出が2つあるのですが、その1つが冷蔵庫でした。Googleマップでは「西インター大通り」となっていますが、「野田専光寺線」と呼ばれていた広い道路から奥まった場所にありました。

 ニチレイだったと思うのですが古い冷蔵庫が白菊町にあって昭和59年の金沢市場輸送の4トン保冷車の仕事ではよく行っていた場所ですが、かなり古い冷蔵庫で駐車場も狭くて、あまり行きたくない苦手な場所でもありました。

- 冷蔵庫 金沢市白菊町 - Google 検索 https://t.co/fP2OkGJogy

 場所を探し出しのも困難なようです。記憶がはっきりしないのですが、平成3年8月の終わりに、被告発人安田敏と二人で神奈川県厚木市に運んだ荷物をこの白菊町の冷蔵庫で積み込んだような気もするのです。冷蔵や冷凍が必要な荷物だったという記憶はありません。

 丸中水産については、これまでも記述があると思います。

- 2022年07月04日12時52分の登録: H3DB_search_”丸中水産”_(該当件数:30/データベース登録数:572,966) _2022-07-04_125246の記録 https://kk2020-09.blogspot.com/2022/07/h3dbsearch30572966-2022-07-04125246.html

(6/30/572966):ツイート
(@kk_hirono)
2014-03-07 04:13:13
> 昭和59年の5月か6月頃の時点では、イスズの新車の4トン保冷車の保冷の箱に「金沢丸中水産」などと大きく書いていたぐらいですから、将来的な関係の継続を踏まえていたのだろうとは推測します。

(7/30/572966):ツイート
(@kk_hirono)
2014-03-07 04:15:15
> そのイスズの新車の4トン車にはエアーブレーキがついていました。大型車はエアーブレーキが常識でしたが、4トン車でエアーブレーキを見たのはそれが初めてだったと思います。丸中水産と書いた保冷車は、それ一台で終わったと思います。

(14/30/572966):ツイート
(@kk_hirono)
2015-07-26 15:58:58
> 丸中水産と書いた新車の4トン車ですが、新車で入ってから数えていたわけではないですが2ヶ月ぐらいは無事な姿だったように思いますが、それを名古屋市内の街路樹に激突大破させたのが被告訴人OSNで、入社から2ヶ月近くは経過していたように思うのですが。

 後に例外もありましたが、金沢市場輸送で地元金沢港から鮮魚を県外に運ぶのは毎年6月頃、スルメイカのシーズンだけでした。昭和59年は特に豊漁で例年よりシーズンが長かったような記憶があり、7月に入っても続いていたような記憶です。

〈〈〈 2022/07/04 15:16:46 Linux Emacs: 〈〈〈

〉〉〉 Linux Emacs: 2022/07/05 14:32:11 〉〉〉

 昨日は、MacBookと傘を持ち歩いて宇出津新港のアルプに行ってきました。クーラーの効いた場所で続きを記述する予定だったのですが、修行が足らないのかまるで集中できずやる気が起こりませんでした。

 未明の3時40分ぐらいに目が覚めて朝まで起きていたと思うのですが、目が覚めてスマホの時計を見ると11時5分ぐらいでした。寝る前に何をやっていたのかよく思い出せないのですが、起きてからキーボードの掃除をやっていました。

 Amazonで注文した道具が昨日の夕方家に戻ったところ届いていました。それを使ってキーのキャップのようなものを全て外して掃除をしたのですが、平成9年にパソコンを始めてから初めての経験でした。

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 457円という商品ですが、2千円以上でないと発送料が掛かるので、2,197円でA4の用紙を購入しておきました。

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 前も同じ商品をAmazonで購入していたのですが、5冊の4冊目を開いて令和4年6月30日付告発状の印刷が終了しました。開いたコピー用紙もまだ400枚は残っていそうですが、残りがあと1冊の500枚なので、この機会に補充をしておきました。

 昭和59年当時の金沢市場輸送の4トン保冷車ですが、8台ぐらいだったように思います。1台は油揚げ専用で大阪府の松原市に定期便と聞いていました。1台はずいぶん古いトラックで、ハンドルがパワーステアリングではなく重いもので4t車では珍しくなっていたと思います。

 日野のトラックで7338号が1月の私の入社当時一番新しかったと思います。4トン保冷車は全部が日野自動車のトラックだったかもしれません。

〉〉〉 @kk_hironoのリツイート 〉〉〉
- RT kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)|kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中) 日時:2022-07-05 14:57/2022/06/27 16:27 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1544198855922577408 https://twitter.com/kk_hirono/status/1541322355552956417



> iPhone: ./album_001_KK_平成3年5月か6月、金沢市東力2丁目のアパート前、長男と次男.jpg https://t.co/TI64copAXH

 先日アップロードした上記の「album_001_KK_平成3年5月か6月、金沢市東力2丁目のアパート前、長男と次男.jpg」という写真にあるのが、その7338号になります。平成3年6月頃になると思いますが、ずいぶんと古くなっています。

 昭和59年当時は新車に近い状態で、同行者がいましたが、初めて仙台市に行った時に乗務していたのがこの7338号で、帰り荷になるのか冷凍のすり身を8トン積載し、運転がしづらかったのも記憶に残っています。

 昭和59年の6月中と考えられるのですが、丸中水産と箱に大きく書いた4トン保冷車が入り、乗務したのが被告発人大網健二でした。「丸中水産」だけではなく、金沢中央卸売市場などと、3箇所ぐらいに文字列があったと思います。

 金沢中央卸売市場の表側の鮮魚の売り場に近い辺りで、お披露目のような場面があったことを覚えているのですが、金沢市内の同じ年頃の新入の運転手もその場にいて、被告発人大網健二とも話をしていましたが、名前は忘れています。

 その昭和59年より後の年は、6月の終わり頃には金沢港のスルメイカの仕事が終わっていて、仕事が一段落したのに合わせて慰安会があったこともよく覚えているのですが、昭和59年は7月に入ってからもスルメイカが続いていたような気がします。

 金沢港のスルメイカの仕事がいつ頃から始まったのか、これも正確には思い出せないですが、5月の終わり頃には始まっていたかもしれません。それまで忙しかったタケノコの仕事が終わる頃でしたが、少し重なる時期もあったかもしれません。

 金沢中央卸売市場から県外に集中的に青果物を運ぶのは、そのタケノコぐらいで4月の終わりから始まっていたかもしれません。3週間ぐらいだったような気もするのですが、長くて1月ぐらい続いたとも思います。

 昭和59年に金沢港からスルメイカを運んだと記憶にあるのは、名古屋、東京、山形県酒田市、岩手県盛岡市と水沢市です。後年は青森や秋田も多くなり、青森から札幌への中継というのもありました。直接札幌に行った運転手もいました。

 仙台市の市場は昭和59年は行っていなかったかもしれません。行ったような気もしますが、タケノコは仙台、山形県鶴岡市、新潟県内、東京都内が多くあり、山形市内の市場というのも後年ありました。鶴岡は庄内の市場と呼ばれていたかもしれません。

 被告発人大網健二の兄が金沢市場輸送に入社した時期も正確には記憶にないですが、まだ金沢港のスルメイカの仕事が続いていた時期でした。シーズンの中程から中程を過ぎた頃の入社だったと思います。

 被告発人大網健二の兄も私の口利きで金沢市場輸送に入社したはずですが、当時の状況は記憶が薄れています。はっきりしていることは、7月7日と8日に宇出津のあばれ祭りがあり、被告発人大網健二が腰を怪我したと言い出し、波多野整形外科に入院したことです。

 能都中学校の1年生か2年生のときか記憶がはっきりしなくなっていますが、被告発人大網健二は能都中学校の第二体育館の天井板が破れて落下し、腰を骨折したということでけっこう長く持木病院に入院していました。

 そのときも被告発人大網健二は、医者にもう歩けなくなるかもしれないとか言われたと話していたのですが、波多野整形外科に入院したときもいくらかそれに近い話をしていました。急な上り坂のある城野町のキリコを担いでいて腰を痛めたという話でした。

 昭和59年に私が金沢市場輸送をやめたのは10月に入ってすぐの頃と記憶にあるのですが、まだ被告発人大網健二の兄は残っていたような気がします。私がやめるしばらく前に私の紹介で入社したのが珠洲の三崎町のHMでした。

 やめた直後に金沢市場輸送に入社したように聞いたと記憶にあるのが姫のNKさんになります。けっこう長く1年以上は金沢市場輸送で長距離の4トン保冷車の乗務をしていたようですが、その後、野々市運送とかに移ったような話を聞いていました。

 昭和63年は例外的に6月頃のスルメイカのシーズン以外に、金沢港に鮮魚を積みに行くことがありました。翌年1月に松波港の岸壁で車の飛び込み自殺をした蛸島のTSさんと最後にあったのもその頃で、そのときは昼でした。

 基本的に金沢港の鮮魚の仕事というのは夜10時から11時頃の競りで「ばんこ」などとも呼ばれていたとも思います。晩の方はわかりますが方言なのか他には聞かない言葉でした。

 ほとんどが仲買の白ナンバーの4トン保冷車で名古屋、新潟、大阪の近場と聞いていました。夜の23時ぐらいに金沢港を出発し名古屋などの市場で荷降ろしをするとすぐに戻り、次の日も同じ荷物で同じ時間に出発する繰り返しと聞いていました。

 私はその金沢港の夜の競りで、一度だけ大阪に行った覚えがあるのですが大型車でした。当時仲買に大型保冷車はまだいなかったと思いますが、そのうち新田商店の大型車を見るようになったので、荷物が増え始めた時期だったのかもしれません。

 昭和59年当時、金沢港の夜の競りで営業ナンバーの金沢市場輸送のトラックが行ったという話は聞いていなかったように思うのですが、時期ははっきりしないものの、名古屋の市場で鮮魚を降ろした帰りに、事故を起こしたと聞きました。

 居眠り運転と聞いたように思うのですが、街路樹に激突したという話でした。怪我はほとんどなかったと聞いたように思うのですが、それが新車だった丸中水産と書いたいすゞの4トン保冷車で、被告発人大網健二の兄の運転になります。

 その後、被告発人大網健二の兄が金沢市場輸送で別の4トン保冷車に乗務したという話は聞いておらず、見ていないような気がするのですが、当時金沢市場輸送の社長だった竹沢俊寿会長と夫人が、全く咎める様子がなかったのがとても印象に残っています。

 被告発人大網健二の兄が金沢市場輸送をやめたという時期も思い出せないですが、予め決めていたのかわからないものの、すぐに直一商店の4トン保冷車で仕事をするようになったと聞きました。金沢港の仲買の1つです。金沢港の仲買は魚屋とも呼ばれていました。

〈〈〈 2022/07/05 16:00:55 Linux Emacs: 〈〈〈

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